イースター島/
Easter Island
南米大陸から3700km、タヒチから4000km離れた絶海の孤島。現地では、現在「ラパヌイ」とも呼ばれ、「世界で一番遠い島」の異名を持つこの島には独自の文明が栄え、世界的に有名な石像建造物「モアイ」をはじめ、未だに解読されていない文字「ロンゴ・ロンゴ」、無数の岩絵を残した「鳥人儀式」等、他では見られない不思議で溢れています。18世紀にヨーロッパ人に「発見」されるまで、島の記録が存在しないため、ミステリアスで謎に包まれています。周囲が60km弱と、とても小さな島ですが、その中にモアイが約900体もあります。その半数近くの約400体が集まるラノ・ララク(Rano Raraku)には、モアイの切り出し場(製造工場)として、彫っている途中のものや完成して運び始めたものなど、今も当時のままの状態で残されています。
15体のモアイが立つアフ・トンガリキ
ラパ・ヌイ国立公園/
Rapa Nui National Park
島唯一の村・ハンガロア村
イースター島唯一の村ハンガロア村(Hanga Roa)に、島民の大半が住んでいます(島の人口は約4000人)。主要なホテルはこの村の中に建ち、村のメインストリートには、レストランや市場、雑貨店、土産屋等が点在しています。午後のシエスタ(13時~15時の長い昼休み)の間は、レストラン以外のお店は閉まります。空港から村の中央までは徒歩で約20分ほどで、村散策は1時間程度で楽しめます。
南海岸エリア
南海岸エリアは、1750年前後に始まったモアイ倒し戦争(フリ・モアイ)の激戦地でした。アフ・バイフ(Ahu Vaihu)には、うつ伏せに倒れた8体のモアイがあります。アフの下から多くの人骨が発見されたことから、かつては大きな村があったとされています。また、アフ・アカハンガ(Ahu Akahanga)には、南海岸の中でも最大級のアフがあり、イースター島初代の伝説の王・ホツマツアの墓といわれています。また、ボートを逆さにした形状の「ボートハウス」と呼ばれる住居跡が見つかり、全盛期には約3000人が居住する村があったと推測されています。バイフとアカハンガの間の海岸には、現在も倒れたモアイ像が点在しています。
ラノララク周辺エリア
イースター島観光のハイライトでもあるラノララク(Rano Raraku)は、かつてモアイ像をこの山から切り出して製造していた場所とされ、「モアイの製造工場」と呼ばれています。ハンガロア村から車で30分のところにあり、現在でも約400体のモアイが山の斜面に放置されたまま土に埋もれています。タヒチのティキ像に似た、正座するモアイ「トゥクトリ(Tuku Turi)」や高さ約21mの未完成のモアイ(島最大のモアイ)などもあります。山の斜面には「モアイの道」と呼ばれるモアイの運搬路の跡があり、ここで切り出されたモアイは、海岸沿いにあるアフまで何十㎞もの道のりを運ばれたとされています。巨大で重いモアイ像をどうやって運んだかは様々な説が唱えられていますが、いまだに解明はされていません。ラノララク山にも火口湖があり、湖面への斜面にもたくさんのモアイが残っています。一方、アフ・トンガリキ(Ahu Tongariki)には、見事に一列に並んだ15体のモアイ像が立っています。実はこのモアイ像、1960年のチリ大地震に伴う津波によって倒壊したのですが、日本企業(㈱タダノ)の援助によって、修復・復元され、1995年の世界遺産登録につながるきっかけにもなったものです。
北海岸エリア
北海岸エリアには、美しいビーチがあります。アナケナビーチ(Anakena Beach)といい、伝説の王・ホツマツアが上陸した最初の地といわれています。イースター島では数少ない白砂のビーチで、ハイシーズンには海水浴客で賑わいをみせます。タヒチから運ばれたヤシの木が植えられており、風が強く荒涼とした景色が多いイースター島の中では珍しく、トロピカルな雰囲気を作り出しています。ビーチのすぐ後方には、プカオを付けたアフ・ナウナウ(Ahu Naunau)のモアイが立っています。これらは1978年に復元されたものですが、倒されたモアイは長く砂に埋もれていたために保存状態が良く、モアイに刻まれた彫刻が細部まで見事に残っています。近くの丘に立つもう1体のモアイ像は、1956年にイースター島で最初に修復され立てられたもので、伝説の王・ホツマツアの像といわれています。また北海岸エリアには、不思議なパワースポットもあります。
テピトクラ(Ahu Te Pito Kura)という、島の言葉で「光のへそ」という名の丸い石があります(別名:地球のへそ)。石は磁気を帯びており、磁石をのせると針がぐるぐると回ります。何らかの宗教儀式に用いられていたと推測され、当時は丸い石の周りにイスとして配置された4つの石に座り、丸い石におでこを付けて瞑想をしていたといわれています。
テピトクラ/磁気を帯びた「光のへそ」という名の丸い石
モアイの修復に日本のクレーンメーカーが大きな貢献を
アフ・トンガリキ(Ahu Tongariki)は、祭壇に立つモアイ(高さ6~8m)としては島内最大級で、倒壊した15体もの巨大なモアイ像を香川県に本社をもつ日本のクレーンメーカー「㈱タダノ」が、修復に携わったことでも有名です。またイースター島では自然の雄大さを味わうことができる場所もあります。鳥人儀式が行われていたオロンゴ(Orongo)からの眺望や、直径1500mもある巨大なラノ・カウ(Rano Kao)の火口、無数にある洞窟等、これらも外せない見所です。車では入って行けない部分は、馬を利用して現地人に案内して貰うこともできます。
島を囲む海は世界一澄んでいると言われ、ダイビング、サーフィンなどのマリンスポーツも盛んです。とくに海水浴を楽しむにはヤシの木が生える白い砂浜のアナケナ海岸(Playa de Anakena)がお勧めです。年間を通して島の海水温はそれほど上がらず、強い夏の日差しの下では心地良く感じます。 イースター島にはどうしてモアイがあるのか?その理由はまだはっきりとはわかっていません。最大の魅力は何と言っても神秘のヴェールに閉ざされたイースター島そのものではないでしょうか。
イースター島の歴史
イースター島の起源は、遠い昔に太平洋の中に沈んでしまったパシフィス大陸(Pacific/太平洋大陸)の一部であったという説、イースター島の文化はオセアニア・メラネシア諸島からきたという説、巨石建造物で有名な南米のティワナコ文明・インカ文明とのつながりからフンボルト潮流と貿易風により南米からきたという説など様々な説がありますが、これといった決め手となる証拠はなく、いまだ謎に包まれています。
1722年オランダ海軍提督のヤコブ・ロッヘフェーンが3隻の船でこの島に上陸し、その日がキリスト教の「復活祭」にあたっていたため、イースター島と名づけられました。1770年当時ペルーを治めていたスペイン副王が、この島に目をつけ英国やフランスに先駆けて自国の艦隊を送り、その指揮下におきました。スペイン人船長はドン・フェリペ・ゴンザレスで島を「サン・カルロス島」と命名。その後、英国のキャプテン・クックが1774年に上陸。クックは日記に当時の様子をこのように記しています。「この島の住民の容姿、言語、生活習慣に関して、フィジー、タヒチなど西方の島民と共通性があり、同じ祖先を持つと思われる」。重要なことは、52年前のロッヘフェーンが記録した島の様子では、モアイはまだ引き倒されていなかったという点です。クックが上陸したころにはすでにモアイ像は倒されており、外国人の来訪が島民の生活や宗教儀式に影響を及ぼしていたと想像できます。
19世紀に入ると捕鯨船や真珠採取船などの欧米の船が多数上陸するようになりました。そして1862年に悲劇が起きます。ペルーで盛んに行われていたリン鉱石の採掘人夫の調達として、このイースター島の島民が奴隷狩りの対象となったのです。その数1000人といわれ、各国から非難をうけ1年後に奴隷解放するも過酷な重労働で、すでに900人余りが死亡。残り100人は帰還する船の中で蔓延した天然痘に罹患して、大半が死亡しました。最終的にはわずか15人程度が生還したといわれています。奴隷として連れ去られ死亡した中には、もちろん王やその身内、神官なども含まれており、島の貴重な文字、ロンゴロンゴを読める人はその後いなくなったと言われています。
1865年タヒチから来たフランス人実業家が島の王族の娘と結婚し、島を自分の支配下に置いたが、のちに暗殺され、その後引き継いだフランス人実業家が島を解放しました。1888年チリ(戦艦艦長ポリカルポ・トロ・ウルタド)がイースター島の領有宣言を行い、以降スペイン語の「イスラ・デ・パスクア(Isla de Pascua)」と呼ばれることになります。2つの世界大戦後、1966年に島の自治が認められ、1967年以降観光地としての道を歩み始めることとなり、 1995年世界遺産に登録されました。