アンデス文明について
インカ帝国滅亡前のペルーを中心とする南米大陸の文明を「アンデス文明」と呼んでいます。旧世界の四大文明とは違い、文字が記された石碑や文献が残っていないため、正確な年代解明は難しく、遺跡残留物から推定する方法(放射性炭素年代測定)や先住民たちの口頭伝承をもとに、推測・検証されています。
アンデス文明の発祥は、旧世界のような大河流域ではなく、アンデスの険しい山間部(または高原地帯)や乾燥した海岸の砂漠地帯などで同時多発的に誕生したと考えられています。また、山間部や砂漠地帯では、渓流や雨水、地下水などを水源として大規模な用水路を築くなど、高度な土木技術を有していたこともわかっています(クンベマヨ遺跡やカンターヨの送水路)。そして最大の特徴が「はじめに神殿ありき」で、神殿の建設(または神殿の更新)が社会統合の核となり、祭祀を通じて社会を動かし、農業の発展や土器づくりを刺激したこともわかってきました。
近年発掘された紀元前3000年紀の遺跡(カラル遺跡やシクラス遺跡)からは、石造建築の神殿や「シクラ」と呼ばれる小石を詰めた植物性のネットが基壇下から発見され、すでにこの時代には耐震構造を併せ持った高度な建造技術を有していたことを示しています。
また、紀元前1000年紀のチャビンデワンタルは形成期のチャビン文化の集大成といわれていますが、近年の発掘調査ですでにチャビン文化に先んじた共同社会が周辺各地に存在していたこともわかってきました(コトシュ遺跡やクントゥルワシ遺跡)。そうしたチャビン文化以前の共同社会との文化的交流がチャビンデワンタルを核にしてアンデス文明の形成期を形作ってきたといわれています。
チャビン文化の衰退後には、北部海岸および南部海岸の各地域には強大な地方文化が登場します(地方発展期)。その中心は北部のモチェ文化と南部のナスカ文化です。その繁栄はおよそ紀元前後から700年頃まで続き、建造された神殿は形成期の頃の「石造り」ではなく、日干し煉瓦を積み上げた「アドベ造り」に変わっています。ちなみに石造りは高地山間部、アドベ造りは低地海岸部との安易な識別には問題があり、石造りの神殿が低地海岸部でも複数発見されています(カラル遺跡やセロセチン遺跡)。北部の海岸地域では、王を中心とする国家社会が誕生し、王墓の副葬品にはたくさんの金細工が一緒に埋葬されるようになりました(シパン遺跡)。
一方南部の海岸地域では、全国から集まれるような大規模な宗教儀礼のための祭祀センター、いわゆる「聖地巡礼の地」が誕生しました(パチャカマック遺跡やカワチ遺跡)。形成期に栄えたパラカス文化を継承したナスカ文化では、焼成前着色の技法を使った彩色土器類のほか、天空の神を崇めた巨大な地上絵、いわゆる「ナスカの地上絵」も数多く制作されました。およそ600年にわたって発展した地方文化はやがて衰退し、それを統合するような国家の形成が起こりました。それがワリ文化(帝国)です。
アンデス中南部のアヤクチョを中心に、チャビン文化以来のアンデス地域の普遍的文化の形成が行われました(650年~1000年頃)。ワリ文化衰退後は、またも地方文化が勃興し、北部海岸ではシカン文化やチムー文化、中部海岸ではチャンカイ文化、南部海岸ではイカ文化やチンチャ文化が栄えました(地方王国期)。
シカン文化はモチェ文化と同様に金の冶金技術に長け、シカン遺跡のロロ神殿そばの王墓からは大量の黄金細工の副葬品が発見されました。一説には太平洋から渡来した異国人が建てた王国だったとの伝説もあります(ナイランプ伝説)。やがて1000年頃にはシカン文化はチムー文化(王国)に吸収され、チムー王国はリマ以北の約1000kmにおよぶ北部海岸地域を統一しました。首都はモチェ文化が栄えたトルヒーヨ近郊のチャンチャンで、土で造られたアメリカ大陸最大の古代都市として知られ、1400年頃に勢力を上げてきたインカ帝国に1475年に滅ぼされるまでおよそ600年間繁栄しました。