赤い岩砂漠にいにしえの王国の繁栄が映る

「古代文明の十字路」ヨルダン

ヨルダン旅行情報

ヨルダンってどんなとこ?

ヨルダンは、北にシリア、東にイラク、南にサウジアラビア、西にイスラエルとパレスチナ自治区を隣接する国です。首都はアンマンで、古代ローマの遺跡と近代的な建造物が共存する、活気あふれる現代都市が広がっています。ヨルダンの歴史は非常に古く、世界でも最も古い人類の定住地の一つとされています。旧石器時代にはネアンデルタール人や初期のホモ・サピエンスがこの地に住んでいたことが確認されています。その後、古代のエドム王国やモアブ王国、ナバテア人の時代を経て、ヨルダンはローマ帝国、ビザンチン帝国、そしてイスラム帝国の支配を受けました。1918年には第一次世界大戦後にヨルダン王国が誕生し、独立国家としての歴史が始まりました。地形は多様で、西部にはヨルダン川が流れ、その周囲には肥沃な農地が広がっています。東部には壮大な自然が残るヨルダン渓谷、南部にはワディ・ラムと呼ばれる広大な砂漠地帯があります。また、ヨルダン川西岸にはナバテア人が築いた古代遺跡ペトラがあり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。さらに、聖書に登場するヨルダン川や、イエス・キリストが洗礼を受けたとされる場所も存在し、キリスト教徒にとって重要な巡礼地となっています。気候は地中海性気候が主で、夏は乾燥して暑く、冬は温暖で降雨量が少ないのが特徴です。南部のワディ・ラムやアカバでは砂漠気候が広がり、日中と夜間の気温差が大きいです。観光には春と秋が特に適しており、穏やかな気候の中で名所を楽しむのに最適な時期です。文化面では、イスラム教が主流で、国民の大半がスンニ派ムスリムです。公用語はアラビア語であり、イスラム教の祭日やラマダン、エイドといった行事が重要な役割を果たしています。

ヨルダンツアー情報

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ナバテア王国の栄枯盛衰

ペトラ遺跡は、ヨルダンの首都アンマンから南へ約240km、車で約3時間の距離に位置し、死海と紅海の中間にあるナバテア王国の遺跡です。紀元前2世紀ごろ、遊牧民族のナバテア人がこの地に定住し、先住していたセム系のエドム人を追い出したとされています。ナバテア人は紀元前168年に王国を建国し(初代国王はアレタス1世)、ペトラは隊商都市として発展しました。この都市は砂漠を往来するキャラバン隊の中継基地となり、香辛料などの貴重品をヨーロッパへ運ぶ最後の逗留地として、国際商業都市へと成長しました。ナバテア王国は、ローマ帝国との対立を避け、紀元前64年ごろにはローマの属国として従いながらも自治権を獲得し、王国の安定を図りました。この時期から、ペトラの建造物はローマ風の様式で造営されるようになり、最盛期には約3万人がこの地に暮らしていたと言われています。特にアレタス4世の時代(紀元前9年~後40年ごろ)、ナバテア王国は領土をダマスカスからアラビア半島西部、ネゲブ地方まで広げ、南アラビアから地中海にいたるほぼ全ての隊商路を掌握していました。この拡大により、乳香や没薬(もつやく)などの貿易で大いに繁栄しました。しかし、紀元後1世紀になると、紅海を利用した海上貿易が主流となり、陸上交易路の重要性が低下します。また、ペルシャ湾からシリア砂漠を経由して地中海に至る新たな交易ルートの活性化により、パルティアのハトラやシリアのパルミラなどの都市が台頭しました。これにより、ナバテア王国の商業都市としての地位は相対的に低下し、やがて衰退の道を歩むことになりました。

ナバテア王国・ヨルダン
ナバテア王国の栄枯盛衰
ナバテア王国・ヨルダン
ナバテア王国の末裔

ペトラ遺跡
Petra

エル・ハズネ/Al Khazneh

エル・ハズネは、高さ約40m、幅約25mの壮大な建造物で、紀元前100年から紀元後200年の間にその原型が作られたと考えられています。その建設技術は非常に優れており、崩落のリスクを避けるため、職人たちは断崖を上から下へと計画的に彫り進めていきました。この建物は「宝物殿」としても知られ、映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となったことで有名です。「宝物殿」という名の由来には、盗賊が第2層にある高所の石の壺に略奪品を隠したという伝説がありますが、これは確かではありません。エル・ハズネの建築には、古代ギリシャのコリント様式やヘレニズム文化の影響が色濃く見られ、ギリシャやエジプトなど、多くの地域の文化が交じり合っていることがわかります。また、一日の光の変化によって、エル・ハズネの壁は50色ものバラ色に輝くともいわれ、行きと帰りで異なる雰囲気を楽しむことができます。ペトラ遺跡の入口から約1.2km続くシークと呼ばれる渓谷の岩肌には、ナバテア人の神々や碑文が数多く刻まれています。また、下部には水路や素焼きの水道管の跡が残っており、ナバテア人が紀元前から給水や治水の設備を整えていたことがわかります。ペトラの東にあるアイン・ムーサの泉が主な水源として利用されており、遺跡の中心部への水供給の痕跡も多く見られます。さらに、見晴らしのよい高台には王の宮殿が建てられ、当時の露天風呂の跡が発見されており、ナバテア人が高度な都市計画と生活様式を持っていたことが窺えます。


シーク/Al-Siq

シークとは、ペトラ遺跡の入口からエル・ハズネへと続く、約1.2kmの狭い峡谷の道です。道の両側には、ナバテアの神々や碑文が多く彫り込まれ、下部には水路や素焼きの水道管の跡が残っています。古代ナバテア人は、紀元前からペトラに給水と治水の設備を完備させていました。ペトラの東にあるアイン・ムーサの泉を主な水源として、ここから導水路を使ってペトラの中心部に水を供給していました。


王家の墓/Royal Tombs

王家の墓は、一般的には王族や高位の役人の埋葬用として建設されたと解釈されています。しかしながら、その建築様式や豪華な装飾から、一部の研究者や専門家たちの間で宮殿または神殿との所説も存在します。右から「壺の墓」「シルクの墓」「コリント式の墓」が並び、その先には「宮殿の墓」「フロレンティヌスの墓」が続いています。いずれの墓も、紀元前1世紀前後に建造されています。


大寺院/The Great Temple

大寺院は、ペトラ遺跡内の中心部に位置する巨大な神殿です。その名の通り、この神殿はかつて重要な宗教的な中心地として使用されていました。大寺院は石段や柱廊、祭壇などがあり、その壮大なスケールに圧倒されることでしょう。

エド・ディル/Ad Deir

エド・ディルはアラビア語で「修道院」の意味で、巨大な砂岩の岩山を削って造られています。建造工法はエル・ハズネと同じく、上から下へと彫り進めて完成させたとされています。高さ45m、幅50mとエル・ハズネよりもひと回り大きく、標高1000mに位置し、ファサードの最終地点から続く山道の階段(900段以上)を登り切ったところに現れます。行きの登りは約1時間、帰りの下りは約40分程度かかります。山道の途中には、ライオンのトリクリニウムがあります。これは、お墓だと言われ入り口が風などによる風化で鍵穴のような形をしています。周辺の岩肌は天然のものとは思えないほどカラフルな模様をしています。

エル・ハズネ
エル・ハズネ(宝物殿)
エド・ディル
エド・ディル(修道院)
シーク
シーク
王家の墓
王家の墓
大寺院
大寺院

ジェラシュ遺跡
Jerash

ジェラシュ遺跡は、アンマンの北約50km、車で約45分の場所に位置する、ローマ帝国時代の壮大な遺跡です。ローマ人がアラブの地に建設した都市の中でも特に華麗で壮大なものとされ、最盛期には約25,000人が住んでいたとされています。ジェラシュは紀元前64年にローマの属州となり、イスラム軍が侵入する7世紀まで、およそ700年にわたって隊商都市として繁栄しました。
遺跡は全長約3.5kmの城壁に囲まれており、中心には列柱道路が走り、その周りにフォーラム、神殿、劇場、浴場といった建造物が次々と建設されました。まず目に入るのは小さな凱旋門で、これは129年にハドリアヌス帝の訪問を記念して建てられたものです。その向かいには競馬や戦車競技が行われた競技場があり、そこから300mほど進むと遺跡のメインゲートに到達します。ゲートを入って左側には、ゼウス神殿があり、その隣には3,000人を収容できる南劇場がほぼ完全な状態で保存されています。南劇場の上部からは、卵形の広場であるフォーラムが見え、そのフォーラムから600mほど石畳の道を歩くと大聖堂にたどり着きます。大聖堂の裏側には複数の教会跡があり、その先には西浴場や北劇場もあります。ジェラシュ遺跡は、ローマ帝国時代からビザンチン帝国、さらにはイスラム帝国時代に至るまで、その姿をほとんど変えずに今日まで残っている、非常に貴重な遺跡です。ペトラ遺跡に次ぐヨルダンの重要な観光地となっています。

  
ジェラシュ遺跡
ジェラシュ遺跡
ジェラシュ遺跡
ジェラシュ遺跡

マダバとネボ山
Madaba and Mount Nebo

ネボ山は、旧約聖書『出エジプト記』に登場するモーセの終焉の地として知られています。モーセは兄アーロンや後継者ヨシュアとともに、約300万人のイスラエル民族(ヘブライ人)を引き連れ、約束の地カナン(現在のパレスチナ)を目指しました。しかし、残念ながらモーセはこのネボ山で息を引き取ることとなりました。ネボ山には、4世紀後半にモーセの死を偲んで建てられた「モーセ記念聖堂」があり、モザイクで飾られた教会の床下からは、天然の岩をくり抜いた6基の墓が発見されています。さらに、山頂近くには「青銅の蛇」の十字架モニュメントもあり、訪れる人々に人気の撮影スポットとなっています。
一方、マダバはイスラム教徒とキリスト教徒が共存する町で、モスクと教会が共に立ち並んでいます。町中を歩く女性たちも、ヒジャブを着けた人と着けていない人が混在しており、宗教の多様性が見られます。この町で最も有名なのが「マダバ地図」と呼ばれるモザイク地図です。このモザイクは、約200万個の石のかけらでできており、ギリシャ正教の聖ジョージ教会のバシリカの床を飾っていました。6世紀のパレスチナやエジプト地方の地名が記載されたこの地図は、貴重な歴史資料であり、古代パレスチナの地形や町、さらには東ローマ帝国時代のエルサレムを描いた現存最古の地図でもあります。また、マダバの南西約18kmの場所には、「城塞ムカーウィル」と呼ばれる不自然な円錐形をした丘があります。ここは、イエスの洗礼者ヨハネが首をはねられたと伝えられる場所として知られています。

  
ネボ山
ネボ山・モーセ終焉の地
マダバ
マダバ・聖ジョージ教会のマダバ地図
ネボ山
ネボ山・モーセ記念聖堂
ネボ山
ネボ山・モーセ終焉の地
城塞ムカーウィル
城塞ムカーウィル
死海
死海

死海
Dead Sea

死海は、生物が棲めない湖として知られています。西側はイスラエル、東側はヨルダンに接しており、両国の国境にまたがる位置にあります。湖面の海抜は約マイナス430mで、地表で最も低い場所に位置しています。通常の海水の塩分濃度は約3%ですが、死海の塩分濃度は約30%で、その10倍に達します。この極めて高い塩分濃度により浮力が強く働き、普通の大人でも簡単に浮くことができます(いわゆる浮遊体験)。ただし、水中で目を開けることはできません。死海の塩分濃度が非常に高い理由は、500万年以上前に地殻変動が起き、海水が閉じ込められたことに加え、太陽の熱で水分が蒸発して塩分が凝縮されたためです。また、周辺の温泉から流れ込むミネラル成分も影響しています。死海周辺には、一流のリゾートホテルが立ち並び、エステやスパの施設も充実しており、ヨルダン観光の人気エリアの一つとなっています。

カラク城
カラク城

カラク城
Karak Catsle

カラク城は、アンマンの南約140km、キングスハイウェイ(王の道)の中ほどに位置する十字軍時代の城塞跡です。この城は12世紀前半に十字軍によって建設され、現在のシリアとエジプトの間を往来するイスラム軍の動きを遮断したり、イスラム教徒のメッカ巡礼やキャラバン隊に通行税を課すなど、軍事的にも宗教的にも戦略的重要な役割を果たしていました。歴代の城主の中でも特に有名なのは、1177年に城主となったフランスの騎士ルノー・ド・シャティヨンです。当時、エルサレム王国(十字軍)とイスラム王国との間には休戦協定が結ばれており、イスラム教徒は自由にエルサレム巡礼を行うことができました。しかし、強硬派であったルノー・ド・シャティヨンは、度重なるイスラムのキャラバン隊の襲撃を実行したため、サラディンの怒りを買い、休戦協定は破棄されました。これにより、1187年にイスラム王国はエルサレム王国に宣戦布告しました。このハッティーンの戦いで十字軍は大敗し、ルノー自身も殺害され、その後エルサレム王国は陥落しました。カラク城は、映画「キングダム・オブ・ヘブン」にも登場し、その歴史的背景を知る上で重要な場所となっています。

ワディ・ラム砂漠
Wadi Rum

ワディラム砂漠は、アカバの東約60kmに位置し、ワディムーサ(ペトラ遺跡の近く)から車で約1時間30分、アカバからは約1時間の距離にあります。この地域はワディラム保護区として世界遺産に登録されており、入口にはビジターセンターがあります。ビジターセンターの南5キロメートルにはベドウィンの村があり、その先からは本格的な砂漠が広がります。砂漠では4WD車で疾走しながら、ロレンスの泉やナバタイ人の碑文、石の橋などを見学し、岩と砂漠の大地を巡ることができます。日帰り観光のほか、ベドウィンキャンプに1泊して、月明かりの下で星を眺めるというロマンティックな体験も楽しめます。また、ワディラムは映画の撮影場所としても有名で、映画『アラビアのロレンス』をはじめ、『トランスフォーマー』や『オデッセイ』、『スター・ウォーズ』など、数々の映画がここで撮影されています。

  
ワディ・ラム砂漠
ワディ・ラム砂漠
ワディ・ラム砂漠
ワディ・ラム砂漠
ワディ・ラム砂漠
ワディ・ラム砂漠

ヨルダンの基本情報

正式名称
ヨルダン・ハシェミット王国 / Hashemite Kingdom of Jordan
国旗
ヨルダン国旗
首都
アンマン
面積
8万9000K㎡(日本の約4分の1)
人口
1,114.8万人 (2021年)
言語
公用語はアラビア語。(英語も通用)
宗教
イスラム教 93%、キリスト教等 7%
通貨
ヨルダン・ディナール
1ヨルダン・ディナール(JOD)=約189.51円(2023年4月現在)
時差
時差は日本-7時間。ヨルダンの方が遅れています。サマータイムは6時間遅れ。
電圧
200V(マルチタイプがオススメです。)
パスポート
入国時6ヵ月以上2ページ以上
ビザ
必要/3ヵ月以内
国際電話
国番号962 / 国際認識番号010
電話のかけ方
  • 日本からヨルダンへ : 国際電話認識番号+962+市外局番(0を取る)+電話番号
  • ヨルダンから日本へ : 国際電話認識番号+81+市外局番(0を取る)+電話番号
持込制限
  • 貨幣 ●外貨・・・制限なし。
  • その他 ●タバコ:タバコ200本または刻みタバコ200gまで。●酒類:1リットルまで。●麻薬、銃器、ポルノは持ち込みが禁止されています。特に、セミヌード写真が掲載されている程度の週刊誌などであっても持ち込みができないので注意が必要です。
持出制限
  • 貨幣 ●ディナール、外貨ともに制限なし。

旅行関連情報

水道水
飲むのは避けた方が良いです。ミネラルウォーターを飲むことをこころがけて下さい。
食事
主食はパン(ピタパン)です。お米も食べますが、パラパラのお米です。ラマダン(断食月)時期には、一部ホテルやレストランでもアルコール類の販売を控える所もあります。
お土産
カフィーヤ(ヨルダン人男性が頭に巻いている布)、死海グッズ(ミネラル石鹸、バスソルト、泥マスク、クリーム)、砂絵ボトル、アラブ菓子 マアムール
プラグタイプ
Cタイプです。
マルチタイプのプラグをお持ち頂くことをお薦めします。プラグ
気候と服装
なるべく肌を日差しにさらさない服装と、帽子やサングラス、そして歩きやすいはきなれたスニーカーなど。
死海では、1年中水着で浮遊体験もできます。レストハウスがあり、口ッカー、シャワーもあります。ビーチサンダルがあると便利です。死海では海面下400m近くなり、冬場でも日中は15~18℃位になります。

アンマン(ヨルダン)の月別平均気温(℃)

  1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
12 13 16 22 27 30 31 31 30 26 19 14
4 5 7 10 14 17 19 18 14 18 9 5
両替について
日本ご出国前に、ユーロ又は米ドル、を準備し、現地でユーロ又は米ドルをヨルダン・ディナールにご両替下さい。
米ドルがそのまま通用します。
日本円は、ヨルダン国内にて、日本円からヨルダン・ディナールに両替できません。(空港の両替ブース、一部の銀行、一部のホテルを除く)
クレジットカードはVISA又はMASTERCARD。JCBは使えないところが多い。
チップの習慣
  • 一般的にチップの習慣があります。
  • レストラン:料金の10%~15%。
  • ポーター、ルームサービス:1ドル程度
  • ガイド:5ドル程度
  • タクシー:料金の10%~15%。
在ヨルダン日本大使館
  • 住所:No.7, Fa'eq Halazon St, Between 5th and 6th Circle, North Abdoun, Amman
  • 電話:(962-6) 593-2005、593-0428

<注意>上記情報は、2022年12月現在のものです。事前予告無しに変更となる場合もございます。