聖書の世界が鮮やかによみがえる

「聖地巡礼の国」イスラエル

イスラエル旅行情報

イスラエルってどんなとこ?

イスラエルは地中海の東岸に位置し、北はレバノン、東はヨルダン、南はエジプトと国境を接しています。首都はエルサレムであり、経済と文化の中心地はテルアビブです。
イスラエルの歴史は古代から始まり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖地として重要な位置を占めています。古代イスラエル王国やヘブライ文明、ローマ帝国の支配、そして中世から近現代にかけてのイスラム教徒やキリスト教徒の支配を経て、20世紀初頭にはユダヤ人移民の増加と独立運動が進み、1948年に国家として再建されました。その後、戦争や紛争の歴史を経て現在に至ります。地形は多様で、地中海沿岸の平野から始まり、北部にはカルメル山脈やガリラヤ湖があります。中央部は乾燥したネゲブ砂漠が広がり、南部には紅海に面したエイラットがあります。エルサレムは三大宗教の聖地であり、旧市街には聖墳墓教会や岩のドームなどがあり、世界遺産にも登録されています。季節については、地中海性気候が主で、夏は暑く乾燥し、冬は比較的穏やかで雨が多いです。春と秋は気候が穏やかで観光に最適です。文化面では、イスラエルは多様な民族と宗教の融合が特徴です。公用語はヘブライ語とアラビア語で、英語も広く話されています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の宗教的な祭りや行事が盛んであり、年中行事で祝われます。

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聖書について

イスラエルを旅する上で事前に予備知識として持っておきたいのが、聖書(旧約聖書)のあらましです。近年の遺跡発掘により聖書に登場する地名が実在する地名(古代の都市)であったことが次々と明らかになり、聖書は史実をもとに描かれたものではないかとする見方が広がりました。これは聖書の時代や出来事を科学的な手法で研究し、考古学的な証拠を通じて聖書の歴史的な信憑性を探求する学問として「聖書考古学」と呼ばれています。世界最古の城壁都市とされる「エリコ」の都市遺跡が発見されたことで、モーセの後継者ヨシュアが契約の箱と角笛で難攻不落の城壁を打ち壊したとされる「エリコの戦い」が史実ではないかとの見解も出ています。また、神の怒りに触れて天からの硫黄と火で滅ぼされた「ソドムとゴモラの町」についても多くの研究者がその実在を調査して、死海沿岸部に存在した可能性を示す痕跡も見つかっています。
旧約聖書では「神と人間との契約の重要性」が常にその根幹をなし、歴史は神が起こしているという視点に立っています。物語は「天地創造」から始まり、イスラエル民族が神から「約束の地カナン」を与えられて、イスラエル王国を築き、その後バビロン捕囚の苦難を経て、エルサレムに戻り、神殿を再建するまでの「およそ1500年におよぶイスラエル民族の歴史書」と言われています。主な登場人物を時系列で並べると、天地創造の時代(アダムとエバ、カインとアベル、ノア)、アブラハム一族の時代(アブラハムと甥ロト、息子イサク、孫ヤコブ、ひ孫ヨセフ)、モーセの時代(モーセと兄アーロン、ヨシュア)、イスラエル王国の時代(サウル王、ダビデ王、ソロモン王)、そして預言者たちの時代=バビロン捕囚の苦難(サルゴン2世、ネブカドネザル2世、キュロス大王)へと続き、エルサレムに帰還したイスラエル民族が神殿を再建したのちは、神からの預言が途絶え、救世主の出現を待つ(物語終了)、というのが旧約聖書の大まかなストーリーです。
【余談】:1500年の歴史とは、ヘブライ人の祖アブラハムの誕生(紀元前2000年頃)から、第二神殿の再建(紀元前516年)までを指します。

旧約聖書では「イスラエル民族が厳格に戒律を守り、神を敬うならば神は祝福と恩恵を与え、救いと繁栄を約束する」と謳っています。しかしながら、後に登場する「新しい契約」を信じるキリスト教においては、そういう「神はイスラエル民族だけを救う」という解釈は邪魔で困るため、「苦難の歴史の末に、ダビデの家系から人類の救世主(メシア)が誕生してくる」という約束を「旧い契約」とみなしました。つまり、新約聖書とは「旧約聖書で約束した救世主が到来した=イエスこそが救世主」という福音(良い知らせ)の物語であります。福音書には「イエスの誕生から死、復活まで」を4人の著者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がそれぞれ別個に書き記しています。イエスは、ベツレヘムで誕生し、ナザレで育ちました。30歳で覚醒し、新しい考え方を布教し始め、33歳で「大衆を扇動した罪」で死刑になっています(ゴルゴダの丘で磔刑)。エルサレムを聖地とする三大一神教として「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教」があります。聖典や崇める神は違うものの、信仰の導きとなるベースには旧約聖書があります。旧約聖書に登場する神は、「ヤハウェ」であり、「主」であり、「アッラー」との認識です。なお、キリスト教だけは、三位一体説と取っています(神(主)、イエス、聖霊)。旧約聖書では預言者が「いずれ救世主は現れる」と予言して終わっていますが、3つの宗教の大きな違いはその「救世主」の考え方が異なる点です。ユダヤ教とイスラム教では「救世主はまだ現れていない」とし、キリスト教では「イエスがその救世主だ」としています。またイスラム教では、イエスは救世主ではないが偉大な預言者だとしている点は非常に興味深いです。

3大宗教の聖地・エルサレム
3大宗教の聖地・エルサレム
3大宗教の聖地・エルサレム
救世主出現の是非が争点。イエスはその救世主なのか!?

エルサレム
Jerusalem

エルサレムの歴史

エルサレムは、中東地域で最も重要な歴史的・宗教的な都市の一つで、その歴史は約3500年にわたります。エルサレムが歴史の舞台にはじめて登場したのは、紀元前1000年頃のイスラエル王国(またはヘブライ王国)の時代です。この時代には、ユダヤ人の王国が築かれ、ダビデ王とその息子ソロモン王によってエルサレムが首都とされました。そしてソロモン王はエルサレムに最初の神殿(ソロモンの神殿)を建てました。その場所は、旧約聖書に登場するアブラハムが神に従順な信仰を示すため、息子イサクをいけにえにしようとした「モリヤの山」とされています。また、この場所はイスラム教の創始者である預言者ムハンマドの「夜の旅」の出発地点とされ、アル・アクサ・モスクや岩のドームといった重要な宗教施設が建てられました。ユダヤ教にとっても、イスラム教にとっても中心的な聖地となったわけです。
【余談】:ダビデ王が首都にしたエルサレムは、もとは異民族のエブス人(Jebusites)の町でした。山岳地帯で自然の要塞でもあるこの地に目を付けたダビデ王は、この地を征服して自身の王国の首都としました。


その後、エルサレムは古代ローマ帝国、ビザンツ帝国、ササン朝ペルシア、イスラム帝国など多くの異なる帝国に支配されました。中世には、エルサレムはキリスト教徒とイスラム教徒の間で争奪の的となり、8回にわたる大規模な十字軍遠征が行われ、エルサレムはキリスト教の聖地として再び注目を浴びました。その十字軍戦争は、11世紀から13世紀にかけての約200年間にわたり続きました。十字軍戦争後、エルサレムはキリスト教の支配から一時的に解放され、イスラム教のアイユーブ朝とマムルーク朝によって支配されていました。そして1517年にオスマン帝国の支配下に入り、再びイスラム教の聖地となりました。


1917年の第一次世界大戦中、イギリス軍がオスマン帝国からエルサレムを奪取し、イギリスの支配が始まりました。1947年に 国際連合がパレスチナ分割決議を採択し、エルサレムを国際管理地域とする提案がなされましたが実現せず、1948年のイスラエル建国後にエルサレムはイスラエルとヨルダンの間で分割統治されることに。1967年に 第三次中東戦争(六日戦争)で、イスラエルがエルサレムを含む西岸地区を占領し、エルサレムは再びイスラエルの支配下に入りました。1980年に イスラエルがエルサレムを「永遠かつ不可分の首都」と宣言。これに対し、国際社会の多くの国々はエルサレムの地位を未解決のままにする立場をとっています。


神殿の丘/Temple Mount

神殿の丘は、第一神殿(ソロモンの神殿)と第二神殿(ゼルバベルの神殿)が建てられた場所です。第一神殿は紀元前10世紀に建てられ、バビロン捕囚の後に破壊されました。その後、第二神殿がゼルバベルによって再建されましたが、紀元70年にローマ帝国によって破壊されました。ゼルバベルの神殿は紀元前20年にヘロデ大王により大幅に改築されて、ヘロデの神殿とも呼ばれています。また、伝説によれば、アブラハムが息子イサクを犠牲にするように命じられたとされる「アケダの場所」=モリヤの丘でもあります。敷地は広大で、学校、図書館、博物館などがあり、イスラム学の研究や文化的な活動が行われています。最も顕著な建物は、アル・アクサ・モスク本体と岩のドームです。アル・アクサ・モスクは、アラビア語で「最遠のモスク」という意味を持ち、紀元7世紀に建てられ、預言者ムハンマドの「夜の旅」の出発地点とされています。エルサレムの象徴ともいえる金色の岩のドームは、ムハンマドが「夜の旅」で天に昇ったとされる場所とされ、内部にある岩が神聖視されています。かつてのユダヤ教の礼拝地でエルサレム神殿内にあったが、現在はイスラム教の寺院となり他教徒は入れません。


嘆きの壁/Western Wall

エルサレムの旧市街にある壁であり、ユダヤ教最も神聖な場所の一つです。この壁は、かつて第一神殿の「西側の壁」の遺構であり、ユダヤ教徒にとっては祈りと嘆きの場とされています。第一神殿は紀元前586年にバビロニア(ネブカドネザル2世)によって破壊され、その後、ペルシアのキュロス二世(キュロス大王)がバビロニア征服後に第二神殿の再建が行われました。嘆きの壁は第一神殿の「西側の壁」の一部であり、神殿が破壊された後も、ユダヤ教徒はこの壁を重要な聖地として崇拝し、祈りの場として訪れてきました。壁には祈りや願い事、訴え事などが書かれた紙やメモが挟まれ、その嘆きや祈りが積み重なっています。ユダヤ教の特別な日や祭りには多くの人々が集まり、祈りや讃美歌を捧げるためにこの場所を訪れます。


ヴィア・ドロローサ/Via Dolorosa

ヴィア・ドロローサは、ラテン語で「苦難の道」という意味で、新約聖書の記述によると、この道はイエスがエルサレムの城門から始まり、十字架を背負ってゴルゴダの丘(カルバリ丘)に至る経路とされています。この道は14の受難のステーション(苦しみの場面)で区切られており、キリスト教徒の巡礼者や信者が聖地巡礼を行う際に訪れる場所となっています。ステーションごとにイエスの受難に関連する場面や事件を記念する礼拝や祈りが行われることがあります。


聖墳墓教会/Church of the Holy Sepulchre

聖墳墓教会は、伝統的にはゴルゴダの丘にイエスの埋葬と復活の場所とされて建てられました。伝承によれば、イエスがゴルゴダの丘で磔刑にされ、埋葬された場所が聖墳墓教会の敷地内にあるとされています。いずれにしてもこの教会は、キリスト教徒にとって最も聖なる場所の一つであり、巡礼地となっています。聖墳墓教会の内部には、イエスの埋葬された場所や復活の場所とされる石の墓があります。


シオンの山の鶏鳴教会/Mt.Zion

屋根の風見鶏が目印の教会で、イエスの弟子のペテロが三度イエスを知らないと嘘をついた後に鶏が鳴いたという聖書の話に由来します。


エルサレム旧市街
エルサレム旧市街
嘆きの壁
嘆きの壁
岩のドーム
岩のドーム
聖墳墓教会
聖墳墓教会
聖墳墓教会
聖墳墓教会の中

イエスの足跡をめぐる

イエスの足跡をたどる巡礼の地として、エルサレム以外で知っておくべきところは、イエスの生誕の地とされる「ベツレヘム」、イエスが30歳頃まで過ごしたとされる故郷「ナザレ」、イエスが本格的に伝道活動を行ったガリラヤ湖周辺です。また、イエスがヨハネからバプテスマ(洗礼の儀式)を受けた場所として知られる「ヨルダン川」の一部は巡礼地となっています。その代表的な3つを紹介します。

ベツレヘムの聖誕教会
ベツレヘムの聖誕教会

ベツレヘム/ Bethlehem

イエス生誕の地は、エルサレムから約10キkm南にあるベツレヘムだといわれています。具体的には、ベツレヘムにある「聖誕教会(Church of Nativity)」内にある地下洞窟です。この地下洞窟をイエスの生誕の地としたのはローマのコンスタンチヌス大帝の母ヘレナで、325年に大帝によりこの教会が建てられました。
聖書の中で「ダビデの町、ベツレヘム」として言及があり、イエスの両親、マリアとヨセフはベツレヘムへ行くためにガリラヤのナザレから旅し、そこでイエスが生まれたとされています。イエスはダビデ王の子孫であり、ベツレヘムはダビデの出身地でもあり、ダビデの末裔である救世主はベツレヘムに生まれなければならなかったのかもしれません。ベツレヘムは現在でもイエス生誕の地として巡礼地となっており、多くの観光客や信者が訪れ、聖誕教会を参拝します。

ナザレの聖堂
ナザレの聖堂

ナザレ/ Nazareth

ナザレはイエスの両親のマリア(聖母マリア)とヨセフの故郷であり、イエスの幼少期と青年期を過ごした場所です。聖母マリアが大天使ガブリエルによってイエスの誕生を告げられたこと(受胎告知)と、イエスが伝道活動をはじめるまで約30年間住んでいたことが世界各地のキリスト教徒を魅きつけ、巡礼に導く町となりました。それゆえ、326年にはコンスタンチヌス大帝がその母ヘレナの頼みに応えて、マリアの家の跡地に教会を築いたことが歴史に残っています。
町の中心には「ナザレの聖堂(Basilica of the Annunciation)」があり、イエスの母マリアに関連する聖地として知られています。また、聖堂内には聖母マリアの聖所やイエスの聖室があり、建物内部にある教会部分が「受胎告知教会」として有名です。現在のナザレはイスラム教徒とキリスト教徒が半々に住む、人口4万人余りのアラブ人の町で、イスラム教の聖地としても知られています。

ガリラヤ湖
ガリラヤ湖

ガリラヤ湖周辺/ Sea of Galilee

イエスの宣教活動は、ナザレでの生活の後にガリラヤ湖周辺で本格化しました。ガリラヤ湖周辺の漁師らを弟子としてを選び、彼らと共に旅をしながら教えを説き始めました。湖周辺の町や村々を回りながら、彼は病気の人々を癒し、奇跡的な出来事を通じて神の国の到来を宣言しました。代表的な巡礼地としてはカペナウム(Capernaum)、ベテサイダ(Bethsaida)、タブハ(Tabgha)などがあります。イエスの第二故郷カペナウムでは、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)で説教を頻繁に行い、病人の癒し、病気や障害の治癒など数多くの奇跡を起こしたとされています。ギリシャ語で「魚の家」の意味を持つベテサイダでは、イエスが盲目の人を癒したり、弟子たちに「わたしはあなたがたを魚の漁師にしよう」と語った場所ともされています。弟子ペトロやアンデレの出身地とされています。ギリシャ語で「七匹の魚」の意味を持つタブハでは、イエスが多くの人々にパンと魚を分け与えた奇跡である「パンと魚の奇跡」が起こった場所とされています。イエスは少ない食料で多くの人々を満足させるため、五つのパンと二匹の魚を祝福し、これが数千人の人々に十分な食事となったとされています。また、タブハ周辺にはイエスが説法をした「山上の垂訓の丘」として知られる場所があります。

ヘロデ大王について

ヘロデ大王・Herod the Great(在位期間:紀元前37年~紀元前4年の約33年間)は、イスラエルの歴史上非常に重要な人物です。彼の統治は政治的な面だけでなく、建築や都市計画の分野でも大きな影響を与えました。皇帝アウグストゥスが統治するローマ帝国の支配下で、イスラエル地域を統治したヘロデ大王は巨大な建築プロジェクトを実施し、中でも特に有名なのが、「ヘロデの神殿」の建設です。衰退した第二神殿のゼルバベルの神殿を豪華で壮大な建造物に再建しました(紀元前20年に開始、紀元前66年に完成)。彼はまた、カイザリヤ、ヘロディウム、マサダなどの都市の建設や改修を行い、地域全体の都市計画の改善に貢献しました。
その一方で、その政治的手腕と同時に、暴虐な行為でも知られています。具体的な例として、自身の家族や側近の処刑、政敵への容赦のない追放、そしてかの有名なベツレヘムにおける「ヘロデの虐殺」が挙げられます。マタイの福音書によると、ヘロデ大王がイエスの出生を聞き、イエスが新たな王となることを恐れたためにベツレヘムに住む2歳以下の子供たちをすべて殺害するように命じた(虐殺)とされています。
以下に彼の代表的な建造物を3つ紹介します。

ヘロディウム遺跡
ヘロディウム遺跡

ヘロディウム遺跡/Herodium

ヘロディウムはヨルダン川西岸のベツレヘム近郊にある、要塞宮殿です。複合宮殿として築かれた人工の山で、要塞内にはヘロデ大王のプライベートな領域や公共の施設、宴会場、儀式の場などがあり、現在も円形劇場の跡が残っています。入り口がエルサレムに向くこの宮殿は、ヘロデ大王のお気に入りで、晩年、丘の上にある宮殿を自身の埋葬地とすることを決めたのだという。建造物やその規模は非常に壮大で、ヘロデ大王の死後も利用され、ローマ帝国や後の支配者によってさまざまな目的で使用されたことから、現在においてこの遺跡は考古学的な重要性を持っています。

カイザリヤ遺跡
カイザリヤ遺跡

カイザリヤ遺跡/ Caesarea

カイザリヤは紀元前22年から紀元前10年の間に建造された港湾都市です。彼はこの都市をローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)に敬意を表して命名し、カイサリア(Caesarea)と名付けました。地中海に面した良好な天然港を備えており、航海や貿易の中継地として重要な役割を果たし、ローマ帝国との商業や文化交流の拠点となり、東方と西方を結ぶ交易路の要所として繁栄しました。巨大な港湾施設や船着き場、劇場、競技場、浴場、宮殿、寺院などが含まれていました。聖書(ルカによる福音書)によると、初代使徒ペテロがここを訪れローマの百人隊長コルネリウスの家族に洗礼を授けたと記されています。

ヘロデ神殿(第二神殿)の想像模型
ヘロデ神殿(第二神殿)の想像模型

ヘロデの神殿/ Herod's Temple

ヘロデの神殿は、紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊されたソロモンの第一神殿に代わって、紀元前516年に再建された第二神殿を大規模に改増築する目的で、ヘロデ大王の命により、紀元前20年から紀元前4年の間に建設されました(完成したのは彼の死後、紀元63年)。
ヘロデの神殿は巨大で、広大な庭園を含む神聖な複合施設で、中心には主祭壇があり、神殿の外側には、神殿の聖域を囲む壁があり、ゲートや柱廊が設けられました。神殿はユダヤ教の重要な礼拝場所であり、ユダヤ人の巡礼者や信者たちが集まり、神への祈りや犠牲を捧げました。
しかし、ヘロデの神殿の存在は長くは続かず、70年にローマ帝国によってエルサレムが破壊されるとともに神殿も焼かれました。その後にヘロデ神殿の跡地には、イスラム教のアル・アクサ・モスクと岩のドームが建っています。

エリコ
エリコ

エリコ
Jericho

エリコ(ジェリコ)は、現在のパレスチナ領内にある都市で、世界で最も古い都市の一つとされており、紀元前8000年頃から人々が居住していたことが確認されています。エリコは旧約聖書の中に登場し、ヘブライ人たちが約束の地カナンへの侵入の際に占領した都市として言及があります。その中で、エリコの強固な城壁が神の力によって崩れ去ったという有名なエピソードが描かれています。
ヨシュア記6章には、「モーセの後継者ヨシュアはエリコの街を占領しようとしたが、エリコの人々は城門を堅く閉ざし、誰も出入りすることができなかった。しかし、主の言葉に従い、イスラエルの民が契約の箱を担いで7日間城壁の周りを廻り、角笛を吹くと、その巨大なエリコの城壁が崩れた」とあります。その結果、イスラエルの軍勢がエリコに侵入し、占領することができたとされています。

クムラン公園
クムラン公園

クムランの死海文書
Qumran

クムランの死海文書は、1947年にイスラエルの死海地域で発見された古代の文書であり、ユダヤ教の聖典や宗教的な文書、日常生活に関する文書などが含まれています。文書の作成者とされるエッセネ派は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて活動していたとされるユダヤ教の一派であり、当時のユダヤ社会とは一線を画した共同体を形成していました。彼らは厳格な宗教的規律を守り、社会的・宗教的な変革を追求しました。死海文書は、エッセネ派の信仰や生活様式に関連する文書であり、エッセネ派が自らの信仰や教義を伝えるために作成されたと考えられています。死海文書は、ヘブライ語やアラム語で書かれており、旧約聖書のテキストや異端的な思想、共同体の規則や信念など多岐にわたる内容を含んでおり、旧約聖書のテキストの正確性や変遷、ユダヤ教の宗教的背景、キリスト教の起源に関する研究において重要な資料となっています。ちなみに、旧約聖書のテキストには、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をはじめとする法律書、歴史書、詩編、預言書などが含まれています。

死海とマサダ要塞
Dead Sea

死海は生物が棲めない湖として有名で、西側がイスラエル領、東側はヨルダン領で、両国に接する位置にあります。湖面の海抜がマイナス430mと世界で最も低地にある塩水湖で、塩分が高すぎるため魚などが住めないことに由来しています。通常の海水の塩分濃度は約3%ですが、死海の塩分濃度はその10倍で、およそ30%もあります。この高い塩分濃度によってより大きな浮力が働き、普通の大人でも楽に浮遊することができます(浮遊体験)。エンゲティやエンボケックなどリゾート地もたくさんあります。また、死海は旧約聖書の中で「塩の海」として言及されており、ソドムとゴモラの滅亡やロトの妻の変成といった物語が関連づけられています。

死海
死海

エンボケック/Ein Bokek

エンボケックには多くのホテル、リゾート施設、スパ、レストランがあり、観光客が死海の特別な環境を楽しむための施設が整っています。リゾート地として整備されたエンボケックでは、死海の海辺でリラックスしたり、塩浴や泥パックを体験したりすることができます。近郊にはローマ軍に追い詰められたユダヤ人最後の砦「マサダ」や聖書の創世記になぞらえた「ロトの妻の塩柱」があります。

マサダの要塞
マサダの要塞

マサダ要塞/Masada

ローマ帝国の支配に不満を抱くユダヤ人たちは、自治権の制限や、ユダヤ教の伝統や神殿儀式の軽視、ローマ社会の中で不平等な待遇などの要因が重なり、紀元66年に「ユダヤ戦争」へと発展しました。紀元70年にユダヤ側の本拠地エルサレムが陥落して、約1000人ものユダヤ人がマサダ(砦・要塞)にたてこもり、ローマ軍との約2年におよぶ攻防を展開しましたが、ついに陥落。彼らは投降の道を選ばず、ほぼ全員が自害(集団自決)したという事件が「マサダの戦い」です。マサダの戦いはユダヤ人の英雄的な抵抗の象徴とされており、その歴史的な意義と勇気ある最期が称えられています。この事件が後に続く民族離散(ディアスポラ)のはじまりといわれています。
マサダの要塞へは、マサダ国立公園の入り口から登山道を上って頂上を目指す方法と、ケーブルカーを利用して頂上を目指す方法の2通りがあります。

エイラット
エイラット

エイラット
Eilat

イスラエル最南端のエイラットはヨルダン、エジプトと国境を接する紅海のリゾートタウンです。古くはソロモン王の時代にシバの女王を迎えた港としても知られており、聖書に登場するエイラットはヨルダンのアカバを指しますが、古い名前を復活させリゾート地として発展しています。海面からさんご礁が見えるほど透明度の高い海で、世界のダイバー憧れの地としても有名です。

ティムナ渓谷/Timna Valley

エイラットの北約30kmには奇妙な石柱(ソロモン王の石柱)やキノコ型の岩やアーチ型の岩など珍しい岩砂漠の地域があります。この地域では豊富な銅鉱石が採掘され、その歴史は紀元前5000年にまで遡り、銅鉱山は紀元前10世紀のソロモン王の時代にも利用されていたといわれています。

テルアビブ
テルアビブ

テルアビブ
Tel Aviv

テルアビブは20世紀に生まれた新しい都市で、白い家並みが世界遺産に登録されています。ヘブライ語で「春の丘」を意味するこの街は、芸術文化の中心でもあり、地中海に面したリゾート地でもあります。街を歩いていると、都市計画に沿って暮らしやすい街づくりを目指していることがわかります。世界遺産の白い街並みは、博物館として開放しているところが多いので、是非見学してみてください。

ネゲヴ砂漠
ネゲヴ砂漠

ネゲヴ砂漠
HaNegev

イスラエルの南部はほとんどが荒涼とした岩の世界が広がり、ヘブライ語の「南」をあらわす言葉で「ネゲヴ」砂漠と呼ばれいます。あまりに厳しい環境はわずかなベドウィンを除いて、人を拒み、それゆえに大自然が手付かずのまま残されています。ネゲヴには1億年以上も前に隆起によって出来た崖があり、それは長さ40km、幅9kmにも及ぶ巨大なクレーターを生み、地球の溝と呼ばれています。砂漠にはナバテア人の遺跡(ヨルダンのペトラ遺跡に代表されるように、繁栄を誇った)も点在しています。

イスラエルの基本情報

正式名称
イスラエル / State of Israel
国旗
イスラエル国旗
首都
エルサレム
面積
2万2K㎡(日本の四国程度)
人口
950万人 (2022年)
言語
公用語はヘブライ語、アラビア語
宗教
ユダヤ教(約74%)、イスラム教(約18%)、キリスト教(約2%)、ドルーズ(約1.6%)
通貨
イスラエルシュケル
1イスラエルシュケル(ILS)=約36.88円(2023年4月現在)
時差
時差は日本-6時間。イスラエルの方が遅れています。サマータイムは7時間遅れ。
電圧
230V(マルチタイプがオススメです。)
パスポート
入国時6ヵ月以上2ページ以上
ビザ
必要/3ヵ月以内
国際電話
国番号962 / 国際認識番号010
電話のかけ方
  • 日本からイスラエルへ : 国際電話認識番号+972+市外局番(0を取る)+電話番号
  • イスラエルから日本へ : 国際電話認識番号+81+市外局番(0を取る)+電話番号
持込制限
  • 貨幣 ●外貨・・・制限なし。
  • その他 ●タバコ:巻きタバコ250本、またはタバコ250g。●酒類:蒸留酒は1リットル、ワインは2リットル。●香水:オーデコロンまたは香水は250ml、送り物は125US$まで。
  • 禁止の物 ●麻薬類、900Mhzのレンジを持つ無線電話、賭博機器、生肉、ポルノ雑誌類。
持出制限
  • 貨幣 ●出国の際に一定額以上のイスラエル通貨(シュケル)の外貨への再両替をする場合は、外貨をイスラエル通貨へ両替した際に受領したレシートの提示を求められるので、保管しておくことが必要。

旅行関連情報

水道水
基本飲めますが、金属イオン(鉛、銅、鉄など)が検出された事があり、水道を開栓した直後の水を飲用せず、数秒間流した後の水を使用するように勧めています。ミネラルウォーターを飲むことをこころがけて下さい。
食事
主食はパン(ピタパン)です。ラマダン(断食月)時期には、一部ホテルやレストランでもアルコール類の販売を控える所もあります。
お土産
死海グッズ(ミネラル石鹸、バスソルト、泥マスク、クリーム)ボディケアブランド「SABON(サボン)」日本と比べ安く購入出来ます。はちみつ、オリーブオイル、イスラエルワイン、アラブコーヒーなど
プラグタイプ
B・C・SEタイプです。
マルチタイプのプラグをお持ち頂くことをお薦めします。プラグ
気候と服装
露出の多い服装を控え、なるべく肌を日差しにさらさない服装と、帽子やサングラス、そして歩きやすいはきなれたスニーカーなど。
死海では、1年中水着で浮遊体験もできます。レストハウスがあり、口ッカー、シャワーもあります。ビーチサンダルがあると便利です。死海では海面下400m近くなり、冬場でも日中は15~18℃位になります。

テルアビブ(イスラエル)の月別平均気温(℃)

  1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
17 18 20 25 27 29 31 31 30 28 24 18
8 8 10 12 15 18 21 21 20 17 12 9
両替について
銀行や両替屋、ホテルなどで、US$や日本円から交換できます。
クレジットカードはVISA又はMASTERCARD。JCBは使えないところが多い。
チップの習慣
  • 一般的にチップの習慣があります。
  • レストラン:料金の10%~15%。
  • ポーター、ルームサービス:1ドル程度
  • ガイド:5ドル程度
  • タクシー:小銭程度。
在ヨルダン日本大使館
  • 住所:The Museum Tower | 19th and 20th Floor, 4 Berkowitz (Berkovich) Street, Tel-Aviv 6423806, Israel
  • 電話:(972) 03-6960380
  • FAX:(972) 03-6910516

<注意>上記情報は、2022年12月現在のものです。事前予告無しに変更となる場合もございます。