ファラオの世界観が今も息づく古代文明史の宝庫

「神々の国」エジプト

エジプトってどんなとこ?

アフリカの北東部に位置するエジプトは、ナイル川の中・下流域に広がる国で、首都はカイロです。エジプトは、世界四大文明の一つである古代エジプト文明の発祥地であり、紀元前3000年頃に国家が形成されました。ファラオが統治し、神々を崇める宗教、学問の普及、そしてピラミッドや神殿といった巨大建造物の建設など、高度な古代文明が栄えました。
紀元前30年にはファラオの時代が終わり、エジプトはローマ帝国の支配を受け、キリスト教が伝来しました。641年にはアラブ人によって征服され、イスラム教が広がりました。キリスト教徒だった多くの人々はイスラム教に改宗し、カイロはイスラムの中心地として発展しました。
その後、エジプトはオスマン帝国やイギリスの支配を受けましたが、1952年のナセルによるエジプト革命により、約2300年ぶりにエジプト人による国家が復活しました。1869年に開通したスエズ運河も1956年に国有化されました。エジプトは、四度にわたる中東戦争を経て、1979年にイスラエルとの平和条約を締結し、中東和平に重要な役割を果たしています。
国土の90%以上が砂漠であるエジプトは、地中海沿岸や紅海沿岸にリゾート地があり、世界遺産に登録されたピラミッドや神殿群、墓地遺跡、壮麗なモスクなど、多くの歴史的遺産が残されており、毎年400万人を超える観光客が訪れています。

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カイロ
Cairo

カイロはアフリカ最大の都市で、エジプトの人口の約30%ほどが住んでいます。本格的に発展してきたのはアラブ軍がカイロを征服してからのことで、実はカイロの歴史は比較的新しいのです。カイロ中心地では、エジプト考古学博物館やアブディーン宮殿などがあり、考古学博物館ではツタンカーメンの墓で見つかったマスクや宝物、古代エジプトの歴史的遺物を見ることができます。アブディーン宮殿は、1863年ムハンマド・アリ王朝のイスマイル王の命により建てられた最も有名な宮殿のひとつで、1952年のナセル革命以前までは代々の王の住居でしたが、その後は大統領府の所有となっています。

エジプト考古学博物館
エジプト考古学博物館
エジプト文明博物館
エジプト文明博物館

エジプト考古学博物館と国立エジプト文明博物館

エジプト考古学博物館(Egyptian Museum)には、ツタンカーメン王の黄金マスク、歴代ファラオの彫像・彫刻・石碑・石棺から、古代エジプトの美術品(壁画・レリーフ・陶器・宝石・装飾品)、民衆たちの生活様式がわかる物(家庭用品、農業具、職人の道具、化粧品など)まで、様々なものが展示されています。以前は、ファラオのミイラも「ミイラ室」に展示されていましたが、2021年4月にオープンした、フスタート地区にある「国立エジプト文明博物館(The National Museum of Egyptian Civilization)」にすべて移送されました。エジプト文明博物館の展示内容は、古代エジプトの起源から始まり、ファラオ時代、ギリシャ・ローマ時代、コプト教時代、そしてイスラム時代までを網羅しています。展示品には、ミイラをはじめ、彫刻、宝飾品、陶器、石棺など、幅広い種類の美術品や遺物が含まれています。タハリール地区にある考古学博物館からは車で約15分の距離です。

イスラム地区
イスラム地区

イスラム地区/Islamic Cairo

イスラム地区は1000のミナレットの町と形容されるように多くのモスクが立ち並んでおり、現在でも中世の面影が残るカイロの下町です。アズハル通りの東エリアにあるハン・ハリーリ(Khan El-Khalili)は、かつては隊商宿(ハン)が集積していましたが、14世紀後半の改装・修復工事によって現在のような姿となりました。迷路のような小道の両側に多彩なお店がびっしりと並んでおり、14世紀には中東最大の規模を誇っていましたが、今はその一部のみが残りバザールを形成しています。高台のシタデル地区では、ムハンマド・アリ・モスク(Muhammad Ali Mosque)があります。イスタンブールにあるブルーモスクを真似て1857年に完成しました。内部は広く大きなシャンデリアやステンドグラスなどで装飾されとても豪華です。ムハンマド・アリのお墓も内部にあります。モスクの外からはカイロ市内が一望でき、天気のいい日には遠くにピラミッドを見る事ができます。

オールドカイロの聖ゲオルギオス教会(マリ・ギルギス)
オールドカイロの聖ゲオルギオス教会(マリ・ギルギス)

オールドカイロ/Old Cairo

市街の南側にあるオールドカイロは「カイロ発祥の地」で、原始キリスト教会の流れを汲むといわれるコプト教会が多くあります。7世紀には住民の多くがキリスト教徒(コプト)でした。現在100以上残っている教会は、4~5世紀に建てられたものと、10世紀になって再建されたものがあり、巡礼などで多くのコプト教信者が訪れます。起点となるのはマル・ギルギス駅です。聖ゲオルギオス教会(別名:マリ・ギルギス)は、伝説では聖人ゲオルギオスがドラゴンを退治した場所があったとされています。洞窟教会として知られるアブ・セルガ教会(聖セルジウス教会)は、イエスの聖家族がヘロデ王の迫害から逃れ、エジプトへと亡命した際に一時避難した場所とされています。コプト博物館の南側にエル・ムアッラカ教会(別名:ハンギング教会)があります。ノアの箱舟をイメージした天井が有名です。オールドカイロのコプト地区はエジプトにおけるキリスト教の歴史的な重要拠点であり、キリスト教とイスラム教の聖地が共存しています。

ギザ
Giza

世界の七不思議で唯一現存する建造物が「ギザの大ピラミッド」です。ギザまではカイロ市内から車でおよそ30分(道が混んでいると1時間以上)、硬質の石灰岩の台地に3つのピラミッドは立っています。カフラー王のピラミッド前から伸びる参道の先にはライオンの身体と人間の顔を持つ「スフィンクス像」が鎮座しています。3つのピラミッドの中で最も大きいクフ王のピラミッドは建築当時146mありましたが、頂上部分が崩れ落ちて現在は137mです(本来の高さがわかるように頂上に鉄の棒がささっています)。ピラミッドには推定2.5トンの石灰岩のブロックが約230万個も使われ、完成までに23年の歳月を費やしたといわれています。

ピラミッドには入り口が2つあり、現在入口として利用しているものは、皮肉にもかつて盗掘用として開けられた出入り口です。中に入り、上へと長い階段を登ると王の間(玄室)があります。そこは薄暗く石棺(と思われる)がひとつ置いてあるだけの殺風景な部屋で、ミイラや宝物などなにひとつとして発見されておらず、置かれた形跡すらないのがまた謎を呼んでいます。クフ王のピラミッドの南側からは、世界最古の木造船といわれる「太陽の船」が2隻見つかっています。1954年に1隻目が、1987年に2隻目が発見されました。死後ファラオの魂が太陽神ラーとともに天空を往来するために造られたとされていますが、本当の目的は定かではありません。

クフ王(Khufu)のピラミッド

(王位:B.C.2589~2566頃)高さ:146m、底面:230m×230m、積み上げた石:約580万t、角度:51.5度

カフラー王(Khafre)のピラミッド

(王位:B.C.2558~2532頃)高さ:143m、底面:215m×215m、積み上げた石:約490万t、角度:58.5度

メンカウラー王(Menkaure)のピラミッド

王位:B.C.2532~2504頃)高さ:65m、底面:105m×105m、積み上げた石:約53万t、角度:51.2度


ギザの3大ピラミッド
ギザの3大ピラミッド
太陽の船太陽の船
ギザの3大ピラミッド地図
ギザの大スフィンクス
ギザの大スフィンクス

ギザの大スフィンクスの謎

大スフィンクス(Great Sphinx of Giza)の建造年代をカフラー王の時代(紀元前2500年頃)とする説は疑わしいものであり、実際にはギザのピラミッドが建造された年代よりもはるかに古いとされています。一部では、その年代を氷河期の終わり頃、紀元前1万年以上前とする説もあります。カフラー王に帰属させる理由としては、スフィンクスの前足の間にある「夢の碑文」に「Khaf」という文字が存在することや、スフィンクスの顔がカフラー王に似ているといった点が挙げられます。また、カフラー王のピラミッドの葬祭殿から河岸神殿に延びる参道がスフィンクスの方向に向かっているという点など。しかしこれらの理由は見た目や些細な関連性に基づくものであり、科学的に確かな証拠はまだ見つかっていません。したがって、大スフィンクスの正確な建造年代や建造者については依然として謎が残っており、学界においても議論が続いています。

夢の碑文(Dream Stele of Thutmose IV)

新王国時代第18王朝のトトメス4世がまだ王子だった頃、夢の中でホルエムアケト神(=スフィンクス)から「砂に埋もれた私を掘り出せば、汝を王にする」というお告げがあり、それを実行してファラオになったというエピソードが書かれています。

ギザの河岸神殿
河岸神殿に使用された巨大な石のブロック

ギザの河岸神殿/Valley Temple of Giza

ギザの河岸神殿は、一般的にはクフ王の時代に建造され、神殿は大ピラミッドと短い通路で結ばれており、彼の葬儀儀式や祭祀に使用されたと考えられています。神殿には巨大な石の柱と広い玄関ホールがあり、内部には祭壇、礼拝堂、倉庫、行政事務所などが存在しています。神殿の柱や壁に使用された巨石の重さはおおよそ数十トンから数百トンに及ぶと考えられています。中庭にある柱はおおよそ50トンから70トンの重さがあり、壁に使用された巨大なブロック石もそれぞれ数十トンの重さがあると推定されています。なお、このような巨大な石材を精巧に切り出して積み上げる手法は、南米ペルーなどで見られる巨石建造物と類似している点が非常に興味深いです。

ピラミッド建造のはじまりと分布

ピラミッドの建造は、古代エジプトの第3王朝時代(紀元前27世紀)のサッカラに建てられた「ジェセル王の階段ピラミッド」から始まったとされています。現在、確認されているピラミッドは、北のアブ・ロアシュ(Abu Rawash)から南のラフーン(Lahun)まで広がっており、合計108基の大小のピラミッドが存在します。これらのほとんどはナイル川の西側に建てられています。その理由として、西側が「あの世」を象徴すると考えられていた宗教的な観念や、ナイル川の氾濫が及ばず、地盤が安定していたことが挙げられます。一時はピラミッドが王の墓であると考えられていましたが、現在ではこの説が否定される傾向にあります。その理由として、ピラミッドから王と特定できる確かなミイラが見つかっていないことや、別の墓で王のミイラが発見されたこと、そして1人の王が複数のピラミッドを建造した例があることが挙げられます。
第5王朝のウナス王のピラミッドでは、ピラミッド内部に「天への階段が王のために造られる。それによって天に昇るために」という意味のピラミッドテキストが刻まれており、王が死後に天に昇り、太陽神ラーと共に天空を巡ると信じられていました。かつてはピラミッド建設がファラオの強権によって民衆が強制労働させられたものと考えられていましたが、発掘調査の進展により、現在では公共事業としてナイル川の氾濫期に職を失った農民などへの失業対策だった可能性が示唆されています。労働者はパンやビールなどの報酬を受け取りながら働き、自発的に参加したとする説が有力視されています。

ジェセル王の階段ピラミッド
ピラミッド建造のはじまり・ジェセル王の階段ピラミッド(サッカラ)
ナイル川沿いのピラミッド分布図

ギザ郊外のピラミッド群と遺跡
Memphis・Saqqara・Dahshur

ギザ郊外にあるメンフィス、サッカラ、ダハシュールの遺跡群は、ギザの3大ピラミッドの建設以前に建てられた重要な遺跡群です。古代エジプトの首都であったメンフィスは王権と宗教の中心地として栄え、紀元前3000年紀から紀元前2000年紀にかけて多くの王たちによって宮殿や神殿が建造されました。サッカラはメンフィスの南に位置し、最初の真のピラミッドであるジェセル王の「階段ピラミッド」が建てられました。これは古代エジプトにおけるピラミッド建築の先駆的な存在であり、後の王たちによるピラミッド建設のきっかけとなりました。ダハシュールはメンフィスから南に位置し、スネフェル王の「赤いピラミッド」と「屈折ピラミッド」が有名です。スネフェル王はクフ王の父にあたり、ダハシュールの遺跡は古代エジプトの建築技術の進歩と発展を示す重要なものとなっています。

ラムセス2世の巨像(メンフィス)
全長15mのラムセス2世の巨像(メンフィス)

メンフィス/Memphis

メンフィスは、ギザの南17km、サッカラよりナイル川寄りにあります。古代王国時代に初めての統一王国の首都として栄えました。メンフィス博物館には、足の1部分がかけている15mのラムセス2世の巨像が横たわっています。建物の中にあるので2階から見下ろし写真を撮ることができます。1階に下り間近でみることも可能です。外にはアラバスター製のスフィンクスがあります。このスフィンクスはギザのスフィンクスとは違い端正な顔立ちをしています。広場奥には、石棺やラムセス2世の立像などがあります。メンフィスは現在発掘途中です。

ジェセル王の階段ピラミッド(サッカラ)
ジェセル王の階段ピラミッド(サッカラ)

サッカラ/Saqqara

ギザの南約10km、第3王朝のジェセル王(Djoser)の階段ピラミッドがあります。このピラミッドは、B.C.2650年ごろ造られた世界最古のピラミッドといわれ、高さ約60m、基底部130m×110m、6段の階段状になっています。階段ピラミッドは単体ではなく、周辺の付属建造物とあわせてピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)を形成し、北側に葬祭殿、東側に王宮とセド祭(王位更新祭)用の神殿、南側に南墓、西側に巨大な倉庫があり、この複合体全体を高さ10.4m、東西277m、南北545mの外壁が取り囲んでいます。外壁内の中庭の砂はギザのピラミッドの砂とは全く違い非常にさらさらしています。また、階段ピラミッドはシュメール出身ともいわれる高級神官(宰相)イムホテプ(Imhotep)が設計したとされ、近くには彼の名を冠した「イムホテプ博物館」があります。また、階段ピラミッドから少し離れたところには、聖牛アピスの墓といわれる不思議な地下墳墓「セラペウム」があります。

セラペウム/Serapeum

サッカラのセラペウムは、1851年にフランスの考古学者オーギュスト・マリエット(Auguste Mariette)によって発見されました。この遺跡はサッカラのピラミッド複合体から少し外れた場所に位置しており(ジェセル王の階段ピラミッドの北西約2km)、広大な地下回廊で構成されています。セラペウムは、古代エジプトで崇拝された聖牛アピスの埋葬場所とされていますが、実態は不明です。坑内には約30個の巨大な石棺があり、それらは驚くほど巨大なサイズ(長さ約4m、高さ約3m強)で、固い花崗岩で精巧に作られています(棺の内角はすべて正確に90度に仕上げ)。棺の蓋だけでも約30トンの重さがあり、完全に密封されています。このような造りの完成度の高さから、セラペウムの石棺は単なる牛の棺ではなく、別の目的のために作られた可能性が高いと考えられています。

セラペウム/聖牛アピスの巨大な石棺
セラペウム/聖牛アピスの巨大な石棺
セラペウム/聖牛アピスの巨大な石棺
セラペウムの広大な地下回廊の様子/奥に巨大な石棺が見える
セラペウム/聖牛アピスの巨大な石棺
セラペウム/聖牛アピスの巨大な石棺(高さはなんと3mを超える)
屈折ピラミッド(ダハシュール)
屈折ピラミッド(ダハシュール)
赤のピラミッド(ダハシュール)
赤のピラミッド(ダハシュール)

ダハシュール/Dahshur

ダハシュールには、クフ王の父スネフェル王の建造した「赤のピラミッド」と「屈折ピラミッド」の2つのピラミッドがあります。赤のピラミッドは、周りに何もない砂漠にポツンとあるという日本人がもつピラミッドのイメージに一番近いピラミッドでしょう。赤のピラミッドは断面が二等辺三角形のピラミッドとしては最古のもので、石が赤っぽく見えることから名前が付きました。赤のピラミッドは中に入ることも可能ですが、かなり歩くので体力、閉所、臭いに耐えられる自信のある人のみが良いでしょう。屈折ピラミッドは赤のピラミッドから南へ2kmほど離れた場所にあります。高さ50mほどのところから角度が変わり52度から43度に斜度が緩くなっています。この理由は多々あるのですが、有名なのは王の死が近づいたからだと言われています。赤のピラミッドの角度も屈折ピラミッドの上部と同じ43度で作られています。

真正ピラミッド(メイドゥーム)
真正ピラミッド(メイドゥーム)

メイドゥームとファイユーム/Meidum&Fayyum

メイドゥームは、カイロの南約100kmに位置します。宿泊施設もない田舎町に階段ピラミッドから四角錐の形に変わった最初のピラミッドがあります。建造したのはクフ王の父スネフェル王だと言われています。現在は崩れ台形のような形になっていますが、ピラミッドの下の部分に、真正ピラミッドであったことがわかる石積みが残っています。カイロ博物館に展示されている夫婦坐像もメイドゥームのマスタバ墳から発見されました。マスタバとは、古代エジプトで建設された長方形の大きなお墓のことです。カイロから車で1時間半ほど、ピラミッド群の南端にある田舎町ファイユームの郊外には、灌漑事業を進めた二人の王ハワーラとラフーンのピラミッドがあります。これらは、カイロ郊外にあるピラミッドの一番南に位置しています。

ルクソール
Luxor

ルクソールは、カイロから空路で約1時間、南に670kmの位置にあります。古代エジプトでは「テーベ」として知られ、首都として繁栄しました。ルクソールはナイル川を中心に東岸と西岸に分かれています。東岸には空港や多くのホテルが立ち並び、太陽が昇る場所として「生者の町」とされ、カルナック神殿やルクソール神殿があります。一方、西岸は太陽が沈む場所として「死者の町」、死を弔う場所とされ、王家の谷、王妃の谷、貴族の墓などが集中して建造されています。


カルナック神殿
カルナック神殿/大列柱室
カルナック神殿
カルナック神殿/願いが叶う巨大なスカラベ像
ルクソール神殿
ルクソール神殿/右側にあった1本は現在パリのコンコルド広場にあります

ルクソール神殿/Luxor Temple

ルクソール神殿はカルナック神殿の中心を形成する「アメン大神殿」の付属神殿として、第18王朝のアメンホテプ3世によって中心部分が建立され、その後に第19王朝のラムセス2世が現存する大部分の神殿を造り上げました。アメン大神殿とルクソール神殿とは約3kmの「スフィンクスの参道」でつながっていました。この参道はアメン神がルクソール神殿を訪れるという年1回のオペトの大祭のために造られたもので、現在も発掘作業中です。神殿入口となる第1塔門は、幅65m、高さ24mの堂々たる様相で、その前には1本のオベリスク(高さ25m)、2体のラムセス2世の座像があります。オベリスクは左右に2本ありましたが、右側の1本は1830年代にフランスに寄贈され、現在パリのコンコルド広場にあります。第1塔門を過ぎるとラムセス2世の中庭、第2塔門を過ぎると大列柱廊、続いてアメンホテプ3世の中庭、最後にアレキサンダー大王の間(奥に至聖所)となります。

カルナック神殿
カルナック神殿/通りの左右には羊顔のスフィンクス像が並ぶ

カルナック神殿/ Temple of Karnak

カルナック神殿は広大な敷地をもつ神殿複合体で、「アメン大神殿」を中心に南の「ムート神殿」、北の「モンチュ神殿」などから形成されています。その大きさは東西約500m、南北1500mもあり、現存するエジプトの神殿の中では最大規模を誇っています。第1塔門から東西の中心軸を進むと、第2塔門と第3塔門の間に有名な「大列柱室」があります。第3塔門から南側に向けて、アメン大神殿の主軸線とほとんど直角にもう1本の南北軸が、第7塔門から第10塔門にわたって延びており、その軸線はさらに南のムート神殿に向かっています。大列柱室は、幅102m、奥行き53mの中に134本もの柱が立っており、中央沿いの12本の柱は高さ23mもあり、ほかの柱より高く(他は15m程度)、花が咲く様子を表したと言われています。大列柱室を抜けるとトトメス1世のオベリスク、娘のハトシェプスト女王のオベリスクがあります。ここにあるハトシェプスト女王のオベリスクは高さ約27mあり、エジプトで最大のものです。ラムセス2世の中庭にあるトトメス3世の祝祭殿の壁には、6世紀頃にキリスト教会(コプト教の礼拝堂)として再利用された時代の装飾(聖人の絵やコプト語の碑文)が今も残っています。神殿の東側には聖なる池があり、儀式などの時に使われていたといわれています。聖なる池の前には巨大なスカラベ像があり、この周りを7週すると願いが叶うと言われ旅行客に大変人気です。

王家の谷
Valley of the Kings

トトメス1世以降の新王国時代の歴代の王たちが造った王の墓で、盗掘を避けるために岩窟墓となっています。下降通路から前室、そして棺がある玄室という構造が一般的で、壁面には再生復活を果たすための宗教文書と挿画が施されています。王墓は発見順で番号が振られ、現在KV1~KV64まであります(KV=Kings Valley)。長い歴史の中で王家の谷にある墓の多くは盗掘を受けましたが、1922年に発掘されたツタンカーメン王の墓(KV62)は唯一未盗掘で、副葬品の財宝が完全な形で発見されました。


王家の谷
王家の谷/正面にピラミッドに見立てたエル・クルン山がみえる
ハトシェプスト女王葬祭殿
ハトシェプスト女王葬祭殿
ラムセス6世王墓
ラムセス6世王墓

ラムセス6世王墓(KV9)

第20王朝のラムセス5世(兄)が着工し、その後ラムセス6世(弟)が完成させ、自らの墓としたこの王墓は、直線的な構造でとにかく規模が大きく、第1の下降通路から前室、角柱室を通り、第2の下降通路を抜けて前室、玄室に至ります。壁画の保存状態がよく、とくに玄室の天井に描かれたヌト女神と昼の書、夜の書は必見です。

ハトシェプスト女王葬祭殿
ハトシェプスト女王葬祭殿

ハトシェプスト女王葬祭殿/Mortuary Temple of Hatshepsut

第18王朝の女王ハトシェプストの葬祭殿。3段のテラス式で数ある葬祭殿の中でも最も美しく、紀元前1500年頃に建てられたとは思えないような遠近法により計算された造りになっています。この葬祭殿は、王家の谷の東側にある断崖を背に建てられており、1~3階までは長い坂道で繋がっています。2階のテラスには当時熱心だったプント国との交易を描いたレリーフなども残されています。ハトシェプストの姿を描いたレリーフは、王位を継承した義理の息子トトメス3世によって無残にも削り取られています。現在もその削られた跡を見ることができます。トトメス3世がハトシェプストの壁画を削った理由は、「恨みによるもの」なのか、「女王の前例を残さないよう、即位した事実を抹消する為」なのか、諸説ありますが真偽のほどは定かではありません。

メムノンの巨像
メムノンの巨像

メムノンの巨像/ Clossi of Memnon

西側エリアに入ってすぐ目に入る2体の巨像は、第18王朝のアメンホテプ3世の座像です。もとは背後に同王の葬祭殿が控えていましたが、第19王朝のメルエンプタハ王が自身の葬祭殿建設のための石材調達のために破壊してしまいました。向かって右側の像には、こんな逸話があります。紀元前27年に起きた地震によって像にヒビが入り、夜明けになるとうめき声や口笛のような音を発していたことから”像が歌う”と噂になり、メムノンの巨像の声を聴こうと詰めかける人々で観光地化したそうです。なおその中には第14代ローマ皇帝ハドリアヌス帝もいたそうですが、後年、像も修復され夜明けの音は聞かれなくなったといわれています。

デンデラ
Dendera

ハトホル神殿 / Temple of Hathor

ルクソールの北60kmほどにあり、日帰りでも訪問が可能です。デンデラは複数の神殿の複合体で、エジプト中王国時代以降、約2000年にわたって増改築が繰り返されたとみられています。この神殿はグレコローマン様式で建てられ、牛の頭を持った愛の神ハトホル女神に捧げられた神殿です。もとは、イシス神殿、ホルス神殿、ハトホル神殿とありましたが、現在残っているのはこのハトホル神殿のみとなり、エジプトに数ある遺跡の中でも最も保存状態の良い神殿のひとつとなっています。この神殿の外壁南側には、数少ないクレオパトラ7世のレリーフと息子のカエサリオンのレリーフがあります。


ハトホル神殿
ハトホル神殿(デンデラ)
ハトホル神殿
ハトホル神殿/美しい石柱と天井壁画
ハトホル神殿
ハトホル神殿/クレオパトラ7世のレリーフ
古代の照明電球
デンデラの古代の照明電球

デンデラの電球/Dendera light

ハトホル神殿の石造りの部屋に入ると、地下へ通じる穴があり、狭い階段を下りると、幅約1メートルの狭い通路に出ます。大人ひとりがようやく通れる程度の空間には、大きな電球を抱えて周囲を照らしているような構図の不思議なレリーフがあります。紀元前1世紀ごろに彫られたとみられ、「古代の照明電球」との説を唱える学者もいます。主流学者によると、電球描写ではなく、安定性の象徴である「ジェド柱(オシリスの背骨)」と中にヘビをはらむ「蓮の花」を描写したもので、エジプト神話の様相を表現したものだとされています。神殿内部の保存状態は良好で、地下室がススで汚れていないのは、火などを使わずに電気を使っていた証拠だという推論もあり、なんとも不思議なレリーフです。

アビドス
Abydos

アビドスは、エジプト神話に登場するオシリス神の復活の地として、古王国時代からすでに聖地であった場所です。そんな由緒ある場所に、セティ1世と息子ラムセス2世は自身の葬祭殿と神殿を建設しました。アビドスはルクソールから車で約1時間半ほどの距離にあり、ルクソールから警護車を伴う必要があるため、同じ方向にあるデンデラと抱き合わせて観光するプログラムに参加することをお勧めします。

セティ1世葬祭殿/Temple of Seti

セティ1世葬祭殿は、セティ1世の在位中には完成しなかったため、息子のラムセス2世が完成させたといわれています。葬祭殿の奥には7つの至聖所があり、美しく彩色された壁画が残っています。至聖所の6つの部屋には、アムン神、オシリス神、イシス女神、ホルス神、ラー・ホルアクティ神、プタハ神にセティ1世がお供物を渡している壁画が描かれており、7つ目の部屋にはセティ1世自身が神として描かれています。また、葬祭殿のすぐ裏手にあるオシリス神の墓所と言われる「オシレイオン(Osireion)」へと続く通路の壁には、第1王朝からセティ1世までの歴代王名が刻まれた『アビドス王名表』があります。この王名表には、古代エジプト唯一の女性のファラオだったハトシェプスト女王やアテン神を信仰したアクエンアテン(アメンホテプ4世)やツタンカーメンの名前は残されていません(意図的に外されています)。
アビドス遺跡には「フラワー・オブ・ライフ(円を重ねた幾何学図形で生命のサイクルを象徴)」やデンデラのハトホル神殿にあるような不思議なレリーフ(戦車やジェット機、潜水艦などの近代兵器のようなレリーフ)などもあり、興味が尽きません。

オンム・セティOmm Sety

日本でも有名なエジプト学の権威ザヒ・ハワスも一目を置いたエジプト考古学者オンム・セティ(本名:ドロシー・イーディー/英国人で1981年死去・享年77歳)は、今から3300年前、アビドス神殿の女神官であり、セティ1世の禁断の恋人として、前世を生きた転生者と言われています。前世の記憶から導き出される古代エジプトの謎解きや新発見、卓越した古代エジプト語力(ヒエログリフやコプト語)と類まれなるエジプト美術の知識など、エジプト学者の間でも大いに話題となり、転生者の記憶はオカルト的な空想の域を超えて、現在も彼女の発したメッセージの解明に向けて注目され続けています。


セティ1世の葬祭殿
セティ1世葬祭殿(アビドス)
セティ1世葬祭殿
セティ1世葬祭殿/美しいレリーフ
セティ1世葬祭殿
セティ1世葬祭殿/ペリコプターにみえるヒエログリフ
オシレイオン
巨大な石柱が見事なオシレイオン/オシリス神の祭祀神殿跡

オシレイオン/Osireion

オシレイオンは、オシリス神を崇拝する神殿、またはオシリス神そのものを埋葬した施設として考えられており、セティ1世がこの地を訪れるはるか昔から存在していたとされています。オシリス神は、死と再生の神、また豊穣の神でもあり、オシリス神の祭りごとや儀式が行われる場所として機能していた可能性があります。
オシリス(緑色の肌の神)は、死者の神や冥界の王として知られており、豊穣と再生の神聖な象徴でもありました。天空神の父ゲブと地母神の母ヌトの子であり、妻であり姉でもあるイシスとの間に息子のホルスをもうけました。しかし、弟のセトに妬まれ殺害された挙げ句、遺体もバラバラにされてしまいますが、妻イシスの尽力で復活し冥界の支配者となり、死者の魂を受け入れ、再生と復活をもたらす神として崇拝されました。

テル・エル・アマルナと近郊
Tell el-Amarna

テル・エル・アマルナ
Tell el-Amarna

テル・エル・アマルナは、第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)が宗教改革の一環として建設した新都「アマルナ」の遺跡です。アマルナの遺跡はナイル川東岸に位置し、ルクソールの北約250kmにあります。宮殿跡、神殿跡、住居跡、墓地などが存在し、アメンホテプ4世と王妃ネフェルティティを中心としたアマルナ時代の文化や芸術「アマルナ芸術」を垣間見ることができます。従来のエジプトの芸術は、ファラオや神々を厳かに表現し、人物像は正面向きなど固定されたスタイルが主流でしたが、アマルナ時代にはその伝統を破り、より自然でリアルな表現が取り入れられました。また、伝統的な多神教体制を否定し、太陽神アテンを唯一の神として崇拝する一神教(アテン信仰)を確立。彼自身も名前をアクエンアテン(アテンの有益な精霊)と改め、アテンへの信仰を強調しました。しかし、アクエンアテンは32歳の若さで亡くなり、後継者のトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)によって都はテーベ(現在のルクソール)に戻されたため、アマルナ時代は約15年で終わりを迎えました。さらに、一神教を好ましく思っていなかった神官たちによって、遺跡はほとんど破壊されてしまいました。1887年にエジプトの考古学者に発見されたことで、アマルナ時代の全容解明へ向けた第一歩となりました。
アマルナ観光の際には、ミニヤ(Minya)という町を拠点にして、日常生活が描かれた39の岩窟墳墓があるベニ・ハッサン(Beni Hasan)や、イエスが幼少期に訪れたという伝説があるアシュート(Asyut)など、アマルナ近郊もぜひ訪問してみてください。


王妃ネフェルティティ
王妃ネフェルティティ
アメンホテプ4世
アメンホテプ4世(アクエンアテン)
アマルナ遺跡
アマルナの遺跡
アマルナ遺跡
アマルナの遺跡
アマルナ遺跡
アマルナの遺跡

エドフ
Edfu

ホルス神殿
Temple of Horus

エドフは、ルクソールの南約108km、アスワンの北約123kmと、ルクソールとアスワンのちょうど中間の位置にあります。天空の神ホルス神を祀った神殿で、2000年前に200年の歳月をかけて作られました。エドフはグレコローマン時代、上エジプトの首都で、神殿は長い間砂に埋まっていたので、ほぼ完全な形で残っています。正面の塔門は高さ36m、横幅79mあります。第二塔門の前には2mほどの大きさのホルス像があります。さらに進み列柱室を過ぎると薄暗い至聖所があります。ここで天井を見上げると真っ黒になっているのが分かります。実はキリスト教(コプト教)の時代に台所として使われていたためです。至聖所にはレバノン杉で作った聖船が残っています。この神殿には隙間なくレリーフが掘られ、母であるイシス女神の乳をのむホルス神のレリーフ、叔父であるセト神と戦うレリーフなどがあります。


ホルス神殿(エドフ)
ホルス神殿(エドフ)/高さ36mの巨大な塔門
ホルス神殿(エドフ)
ホルス神殿(エドフ)/至聖所の中の聖なる船
ホルス神殿(エドフ)
観光客に人気のハヤブサの神ホルス像

コム・オンボ
Kom Ombo

コムオンボ神殿
Temple of Kom Ombo

エドフより南、アスワンの北45kmにあります。 町のはずれナイル川に突き出た丘の上に、ホルス神と蛇の神ソベク神を祀ったコム・オンボ神殿があります。この神殿は2人の神のために作られた神殿なので2重構造の神殿になっています。プトレマイオス朝時代に建てられ、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に完成しました。ここのレリーフは特徴的なものが多く、最古のカレンダーのレリーフや出産のレリーフ、外科の医療器具などのレリーフなどがあります。天井の彩色もまだ残っています。遺跡の外にはナイル川の水量を測るために使っていたナイロメーターがあります。


コムオンボ神殿(コムオンボ)
コムオンボ神殿
コムオンボ神殿(コムオンボ)
コムオンボ神殿/壁面の美しいレリーフ
コムオンボ神殿(コムオンボ)
コムオンボ神殿/列柱の美しいレリーフ

アスワン
Aswan

アスワンは、エジプトの首都カイロの南約900kmに位置し、ナイル川の東岸に広がる都市です。この地域にはヌビア人と呼ばれる肌の色が黒い人々が多く住んでおり、彼らの豊かな文化と伝統が今も息づいています。ナイル川沿いにはメインロードが走り、その周囲には豪華客船や伝統的な帆船であるファルーカが行き交う風景が広がります。カイロとは全く異なる雰囲気を持つ都市で、静寂と自然に囲まれた環境で、ゆったりとした時間が流れています。


ファルーカ(帆船)
ファルーカ(帆船)
エレファンティネ島
エレファンティネ島
イシス神殿
イシス神殿(フィラエ神殿)
イシス神殿
イシス神殿(フィラエ神殿)

フィラエ神殿
Temple of Philae

フィラエ島は、古代エジプトでは聖なる島と呼ばれ、神話ではオシリス神の島であり、イシス神がホルス神を産んだ島だと言われています。そのため神殿内のレリーフもイシス神とホルス神のものが多く見られます。神殿は、キリスト教会として使われていた時代もあり異教とされレリーフが削られたり、碑の破壊が多発しました。もともと神殿があったフィラエ島はナイル川の真珠と呼ばれていましたが、アスワンダムの建設により水没してしまう運命にありました。しかし、ユネスコの協力により、1960年から1980年の間に、近くにあったアギルキア島に移転されました。このとき、島の形も似せるために島を切り出しフィラエ島と同じ形にしました。現在はこの島がフィラエ島と呼ばれています。

未完成のオベリスク
未完成のオベリスク

未完成のオベリスク
Unfinished Oberisk

アスワンには神殿で見られるオベリスクを切り出していた石切り場などがあります。きりかけの途中にヒビが入り放置されたと考える切りかけのオベリスクは18~19王朝のもので、高さ40m重さは推定1170tあるといわれています。このオベリスクは完成していたらエジプト1大きなオベリスクになっていました。

アブシンベル
Abu Simbel

アブシンベル大神殿
The Great Temple of Abu Simbel

アスワンの南280kmに位置するエジプト最南端の見どころ。アスワンダム建設のため湖のそこに沈んでしまう運命にあったためユネスコの協力のもと1964年~1968年にかけてブロックにわけ切り出しもとの位置より60m上にそっくりそのまま移動しました。アブ・シンベルに行くにはアスワンからコンボイになりで行けるほか、飛行機になります。コンボイだと早朝と昼に1回ずつ、飛行機だとアブ・シンベルに付いた3時間後に再び元の場所に向けて飛び立ちます。アブ・シンベル大神殿は、自己顕示欲が強かったラムセス2世により作られた神殿で正面には高さ20mのラムセス2世の像が4体もいます。神殿事態の大きさは高さ33m奥行き63mもあります。大列中室のレリーフにはヒッタイトとの〈カディシュの戦い〉を描いたレリーフがあります。中でも戦車に乗り弓を引くラムセス2世のレリーフは有名です。また、史上最古の講和条約ヒッタイトとの協定内容が記されたヒエログリフのレリーフも必見です。至聖所には4体の神像がありその中の1つは神聖化されたラムセス2世。1年に2回、春分の日と秋分の日は至聖所まで日が入り4体のうち3対を順に照らします。闇の神であるプタハ神は照らされず、ラムセス2世の像が一番長く日が当たります。大神殿の横にある小神殿は王妃であるネフェリタリのために作られたハトホル神を祭る神殿で正面には4体のラムセス2世の立像と2対のネフェリタリの立像が並んでいます。列中室にはハトホル神のレリーフが彫られた柱などがあります。 アブ・シンベルで行なわれる音と光のショーは、ライトアップのみでなくプロジェクターを使い岩山をスクリーンに見立て神殿の歴史やラムセス2世の冶世の物語が進んでいきます。ショーも迫力がありすごいのですがこのときに見られる星もすごくきれいにみることができます。


アブシンベル大神殿
アブシンベル大神殿
ラムセス2世大神殿
ラムセス2世大神殿
アブシンベル小神殿(内部)
アブシンベル小神殿(内部)
タニス遺跡
タニス遺跡

タニス
Tanis

タニス遺跡 Tanis

タニス遺跡は、カイロから車で約3時間、現在のサンエルハガルにあります。エジプト第20王朝末期に建設され、続くエジプト第21王朝では上エジプトの首都となり、在位期間が最も長いプスセンネス1世(46年間)の頃に繁栄しました。アメン神に捧げられた大神殿などの多くの神殿と第3中間期の王家のネクロポリスの遺跡があります。エジプト考古学界では長い間ここが伝説のピラメセス(ラムセス2世の幻の都)だと考えられていましたが、第21王朝と第22王朝のファラオの未盗掘の墓が次々と発見されたことでここが間違いなくタニスであることが判明しました。タニスの様々な神殿建設にはラムセス朝時代の都ピラメセスの建材が大量に使われたことが初期の誤解の原因といわれています。

アレクサンドリア
Alexandria

アレクサンドリアはカイロに次ぐエジプト第二の都市で、カイロからは車で3時間半程度、空路で45分ほどの地中海に面した港町です。地中海性気候のため、エジプトの他地域より夏の暑さは和らぎ、冬にはみぞれが降ることもあります。アレクサンドリアはアレクサンドロス大王によって建設され、彼の死後に首都となり、全盛期には地中海文化の中心地として栄えました。紀元前30年にアクティウムの海戦で敗北し、クレオパトラ7世が自害した後、ローマに征服され、7世紀にはアラブの侵入を受け、19世紀の近代化が始まるまでは廃墟の多い港街として時が経過しました。アレクサンドリアが復権したのは、ムハンマド・アリ朝の時代(1805年以降)からで、西洋化の影響が強まり、街の中にはどこかしらヨーロッパの色彩を感じるところがあります。


カイトベイ要塞
カイトベイ要塞

カイトベイ要塞
Citadel of Qaitbay

世界の七不思議のひとつ「ファロスの灯台」跡にたてられた要塞。ファロスの灯台とは、高さ120mで、50km以上先からもその光が確認できたと言われています。建造は紀元前3世紀頃で、アレクサンダー大王が考え、プトレマイオス2世が建設したと言われています。しかし14世紀に起きた地震により崩壊してしまいました。そして15世紀後半にスルタン・アシュラワ・カイトベイにより、この石を使って現在の要塞になりました。要塞は三重構造の堅固な造りになっており、現在は海軍博物館になっています。休日などは多くの人で賑わっています。

ポンペイの柱
ポンペイの柱/高さは27m、周囲は8mもある巨大な柱です

ポンペイの柱
Pompey’s Pillar

町の小高い丘の上に建つ柱で、高さは27m、周囲は8mもあります。柱と一緒にスフィンクスも2体あります。このポンペイの柱にはいろいろな逸話があります。中でも知られているのがローマ皇帝ディオクレティアヌスが建てた図書館の柱の1本だという話です。建設当時はこのような柱が400本建っていたといいます。丘の下の周りには折れてしまった柱の跡もあります。

カタコンベ
カタコンベ

カタコンベ
Catacomb of Kom al-Shuqafa

1900年代偶然にロバが穴に落ち発見されたエジプト最大の共同墳墓です。地下3階まであり、古代エジプトと古代ローマの建築様式が取り入れられています。入り口にはメデューサのレリーフがありますが、奥の部屋にはアヌビス神の壁画などもあり珍しい墳墓です。1~2世紀は貴族階級の墓でしたが、3世紀に入ると一般の共同墓地に変わりました。そのため多くの穴があります。99段のらせん階段を下りると墳墓の中は迷路のように入り組んでいます。1つの部屋には馬の骨があります。墳墓内の写真撮影は禁止です。

新アレクサンドリア図書館<
新アレクサンドリア図書館

新アレクサンドリア図書館
Bibliotheca Alexandrina

かつてのアレクサンドリア図書館は、古代ギリシア世界の学者たちが学問研鑽に集い、世界各地から集められた膨大な古代の叡智(蔵書)を蓄えた、まさに知の工房でした。歴史上複数回にわたる火災によって、貴重な蔵書はほとんどすべて焼失してしまいましたが、現代になって本来の図書館をもう一度復興させるという動きがあり、新しいアレクサンドリア図書館というのが、2002年に建設されました。世界に類を見ない近代的な図書館には、世界に唯一の「図書館の中にある博物館」が設けられています。図書館見学と合わせて館内附属の考古学博物館の見学もお忘れなく。

グレコ・ローマン博物館
グレコ・ローマン博物館

グレコ・ローマン博物館
Graeco-Roman Museum

グレコローマン博物館は、1859年に建設された由緒ある博物館です。正面のまぐさには、MOYXEION(ムセイオン=博物館)という文字が刻まれていています。展示品にはアレクサンドリアの海中から発見されたものもあり、クレオパトラの頭像をはじめ、古代ギリシャの彫像、ローマ皇帝の胸像、石棺、ミイラ、初期キリスト教の工芸品など、収蔵品はおよそ4万点にのぼります。古代エジプトにおけるギリシャ、ローマ時代の歴史を紐解く貴重な遺物がたくさんあり、絶大な人気を誇っています。2005年より改修工事で長く閉館していた博物館は、2023年10月に再開しました。

 

シナイ半島
Sinai Peninsula

シナイ半島は、エジプトの国土の約8%を占め、大部分が砂漠地帯です。この地域は、年間を通じてマリンスポーツを楽しむことができ、特に海沿いには高級リゾートが数多く存在しています。特にラス・モハンマド国立公園やナブク国立公園は、世界的に有名なダイビングスポットとして知られています。これらの場所には、美しいサンゴ礁や多様な海洋生物が生息しており、ダイバーにとって魅力的な目的地となっています。
また、歴史的および宗教的な重要性も持っています。シナイ山は、モーセが十戒を受け取った場所として知られ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教にとって聖地とされています。シナイ山のふもとには、6世紀に建てられた聖カタリナ修道院があり、これは世界遺産にも登録されています。


聖カトリーナ修道院
聖カトリーナ修道院

シナイ山と聖カトリーナ修道院
Mt.Shinai&St.Katherine’s Monastery

シナイ山は、モーゼが十戒を授けられたとされる山です。標高は2285mあり、登頂するには3750段の厳しい階段を上るか、ラクダに乗って途中まで行きそこから800段の階段を上るかの二通りがあります。少なくとも往復で4時間ほどかかります。冬になると雪が降り、他の地域よりもかなり寒いのでしっかりした防寒具が必要です。聖カトリーナ修道院は、シナイ山に登る途中の分かれ道の先にあります。いびつな4角形をしており、複数回にわたって修復されています。

西方砂漠オアシス
Western Desert&Oases

エジプトは国土の90%が砂漠。砂漠を3つの地域ごとわけるとナイル川の西側を西方砂漠、東側を東方砂漠、シナイ半島のシナイ砂漠にわけることができます。3地域の中でも乾燥した地域とされ世界でも最も降水量が少ない西方砂漠。時には20年以上雨が降らないということもあります。そんな西方砂漠にも、4箇所のオアシスがあります。オアシスは砂漠内の海抜0m以下の窪地に地下水がたまり人々が集まりできます。砂漠ですが動物も多く生息し農業も営まれています。特にナツメヤシは古代から採れた作物の1つで現在は輸出も行なっています。

バハレイヤ・オアシス
Bahariyya Oasis

カイロから約4~5時間ほどの距離にあるオアシス。第18王朝から歴史に名が残り繁栄したのは第26王朝。後にアレキサンダー大王も訪れ神殿を造りました。保存状態などはあまりよくありませんが、エジプトで唯一アレキサンダー大王のカルトゥーシュが黒砂漠発見されました。1999年には100体を超えるミイラの発見があり、この地域にはほかにも1万体近いミイラが埋まっているのではないかと言われています。 近郊には、黒砂漠と呼ばれる三角形の黒い小山が続くエリアがあります。この黒い小山は玄武岩によるものです。中にはギザの3大ピラミッドに似たものもあります。 さらに進むとクリスタル・マウンテンと言われる水晶のような岩が広がるエリアがあります。ここの岩は、太陽光により岩がキラキラして見えます。すべて天然石です。(※ここの石は持ち出し禁止です。) そしてさらに進むと西方砂漠1番の見どころ白砂漠に着きます。ここは変化に富んだ奇岩が無数に点在するエリアです。これらは、石灰岩が長い年月をかけて風化し現在の奇妙な形になりました。大きいものでは高さ5mほどのものもあります。夕暮れ時は、夕日が当たり幻想的な風景が広がり、夜になると驚くほどたくさんの星がきれいに見られます。

ファラフラ・オアシス
Farafra Oasis

白砂漠からすぐ近くにあるオアシス。古代よりリビアからエジプトを守る重要な軍事拠点でした。芸術家バドル氏の私設博物館があり、オアシスの村に住む住民を素焼きの人形や砂漠の砂を使った砂絵で表現した、素朴な村の暮らしを描いた絵画が展示されています。

ダフラ・オアシス
Dakhla Oasis

アラビア語で『真ん中』を意味するエジプト第2の人口がいるオアシスです。町の中心は古代エジプト、アモン神の妻の名前がつけられておりムートと呼ばれています。ムートが中心になる前は、35km離れたカスルという町が中心地でした。カスルは迷路のように路地が入り組んでいます。ミナレットの上からはカスルを一望することができます。

ハルガ・オアシス
Kharga Oasis

西方砂漠最大の町。10km離れた場所にあるバガワット(Bagawat)の死者の町は、紀元4~6世紀にかけてのキリスト教徒(コプト教徒)の共同墓地遺跡で、墓の中にはアダムとイヴ、ノアの箱舟、モーゼの出エジプトなど聖書のシーンが鮮やかに描かれています。


バハレイヤオアシスの近郊の「白砂漠」
バハレイヤオアシスの近郊の「白砂漠」
バハレイヤオアシスの近郊の「黒砂漠」
バハレイヤオアシスの近郊の「黒砂漠」

エジプトの基本情報

正式名称
エジプト・アラブ共和国 / Arab Republic of Egypt
国旗
エジプト国旗
首都
カイロ
面積
100万K㎡(日本の約2.73倍)
人口
10,233万人 (2020年)
言語
公用語はアラビア語、都市部では英語も通用。
宗教
イスラム教、キリスト教(コプト派)
通貨
エジプト・ポンド
1エジプト・ポンド(EGP)=約4.51円(2023年6月現在)
時差
時差は日本-7時間。エジプトの方が遅れています。サマータイムは実施していません。
電圧
220V(マルチタイプがオススメです。)
パスポート
査証発行日より6ヵ月以上。
ビザ
必要。日本で準備もできますが、観光で1カ月以内の滞在ならカイロ到着後に取得も可能。
国際電話
国番号20 / 国際認識番号010
電話のかけ方
  • 日本からエジプトへ : 国際電話認識番号+20+市外局番(0を取る)+電話番号
  • エジプトから日本へ : 国際電話認識番号+81+市外局番(0を取る)+電話番号
持込制限
  • 貨幣 ●外貨・・・外貨:無制限(10,000米ドル以上は要申告)
  • タバコ ●紙巻タバコ200本 ●葉巻50本、刻みタバコ200g。
  • その他 ●100エジプト・ポンド相当まで。個人使用のカメラ、ラジオ、レコーダー、ビデオカメラなどは申告
持出制限
  • 貨幣 ●外貨・・・外貨:無制限(10,000米ドル以上は要申告) ●現地通貨・・・5,000エジプト・ポンドまで
  • その他 ●エジプトで購入した金・銀(少量の個人使用分は可能)、食料品、麻薬。免税で持ち込んだ物、古美術品は許可が必要。

旅行関連情報

水道水
飲用できません。うがいや歯磨きをする際も、ミネラルウォーターをご利用ください。
食事
主食は、中が空洞になっている薄いパン(アエーシ)です。フール(乾燥そら豆煮込み)、ファラフェル(ヒヨコマメやソラマメのコロッケ)などが有名。
お土産
デーツ、ハイビスカスティー、パッチ・チョコレート、香油&香水瓶、オーガニック製品
プラグタイプ
Cタイプです。
マルチタイプのプラグをお持ち頂くことをお薦めします。プラグ
気候と服装
基本的に夏服ですが、直射日光が強いので日本のように半そでなどで出歩くと肌が痛いほどやけてしまうことがあります。また、列車やバス、ホテルなども冷房がききすぎることがあるので、着脱しやすい薄手のパーカーや長袖のシャツを1枚持って行くことをお勧めします。砂漠でキャンプをする場合などは朝夜と昼の温度差が激しいのでフリースなどが必要になります。
靴などはホテル内や町を少し出歩くくらいならサンダルで良いのですが、砂漠や遺跡など観光する場合は歩くことが多いので履きなれた靴が良いでしょう。他には日差しよけのため帽子、サングラス、砂よけや首やけに役立つスカーフなど日焼け対策は必需品になります。

エジプト(カイロ)の月別平均気温(℃)

  1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
18 18 22 27 32 34 34 33 32 28 23 19
9 9 12 15 18 20 22 22 20 18 14 10
両替について
大都市では日本円から両替出来ます。高級ホテルやレストラン、みやげもの屋では日本円が使えます。
大都市以外ではUSドルの現金をご用意ください。
クレジットカードはVISA又はMASTERCARD。JCBは使えないところが多い。
チップの習慣
  • 一般的にチップの習慣があります。
  • レストラン:料金の10%~15%。(サービス料なしの場合)
  • ポーター、ルームサービス:5エジプト・ポンド又は、1ドル程度
  • タクシー:特別なことをしてもらった時に料金の10%。
在エジプト日本大使館
  • 住所:81 Corniche El Nil Street, Maadi, Cairo P.O.Box 500, Maadi
  • 電話:(20) 2-2528-5910
  • FAX:(20) 2-2528-5905

<注意>上記情報は、2022年12月現在のものです。事前予告無しに変更となる場合もございます。